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【今でしょ!note#176】「量」の伸び代は限界に、「質」の伸び代は無限大

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

表層的には「豊かな」時代になり、人々の生活は過去と比べて便利になりました。最近、色々な本を読んだり、人の話を聞いていて物凄く感じるようになったのは、あらゆる物事で「量」から「質」への転換が求められていることです。

分かりやすいのは、大量生産・大量消費のトレンドの終焉ですね。同じ型のものをとにかくたくさん作ることで「規模の経済」を働かせ、企業はコストカットを図る。
一般の人々は、みな同じような服を着て、モデルとされたライフスタイルと働き方を選択する。
そんな世界が人口減少や、ネットの台頭により個人に対してスポットライトが当たるようになり、変わってきつつあります。

たくさん作っても消費しきれず捨ててしまうことを「ダサい」と感じ、本質的に「意味」を感じられない仕事には優秀な人が集まらなくなっている。

私は、昨今のこのようなメガトレンドに関しては非常にポジティブで、チャンスしかない、とてもいい時代に生まれてきたと実感しています。
まさに「量」から「質」の転換ポイントに、あらゆるチャンスが存在している。

今日は、私が特に「質」への転換に上手くシフトチェンジすべきと考えていることについて、解説していきます。


「働き方改革」に求められる「質」

まず、とても分かりやすいところとしては「働き方改革」です。

私の管理職としての今年の大きなミッションの一つが「チーム時短」の実現で、昨年度よりも自分のチームの働く時間をとにかく減らしたいと考えています。

会社としても変わってきているのを感じており、これまでは「労働時間が多少長くても、成果が出ていれば評価される」と雰囲気を感じていましたが、最近は特に「どんなに成果を出していても、そもそも労働時間が長いのであれば評価しない」という考え方になりつつあります。

おそらくこの考え方は、今後ますます広がっていくであろうと考えており、日本全体で「どんなに成果を出してもコンプラ違反はNG」と同じくらい、労働時間に対する厳しさは増すものと見ています。

ただ、本来重要な論点は、ある程度の労働時間短縮が削減されたその先の世界です。
どれだけ労働時間削減が進んだところで、最終的に0時間になるわけではなく、どこかで削減の頭打ちに会いますよね。明らかに働きすぎの人が、一定のレベルまで労働時間を削減することには重要な意味がありますが、一定レベルまで下げることだけが目的化しても何の意味もないということです。

日中の勤務時間が9時〜17時の人がいたとして、これまで残業も含めて9時〜20時まで働いていたとすれば、差分の3時間分を家族との時間に充てたり、趣味の時間に使うことには意味があります。
しかし、本当に重要なのは、「量」の面での削減が進んだところで、勤務時間が9時〜17時のままだとすれば、この8時間の「質」をいかに上げていくか、だと考えます。
単位時間あたりの仕事の「成果」ということであれば「生産性」という言葉に置き換えられますが、単位時間あたりの仕事の「質」にあえてフォーカスしたいです。
つまり、同じ時間をかけて取り組んでいる自分の仕事に対して、どれだけ「意味」や「やりがい」を感じて、「楽しく」取り組んでいるか。これが、私が考える本来の意味での「働き方改革」です。

私にとっての「仕事」は、人生を豊かにするための手段です。

こちらでもこれまでの仕事経験を簡単にご紹介しておりますが、仕事を通じてサウジアラビアの要人の方と話をする機会を得たり、活気ある東南アジアの若い人たちと一緒に、汗かきながら泥臭くプロジェクトに取り組むという貴重な経験をさせてもらいました。

仕事がなければ、絶対にこのような機会はなかったですし、本来仕事は「楽しいもの」なのです。
しかし、現実には必ずしもそうなってはいないですよね。その現実に対して「お金をもらうということはそういうものだから」と諦めるのか、それとも「それはおかしい!」と取り組めるところからでもやっていくのか。
この小さな決断の違いが、未来を大きく変えると思います。

私は管理職の役割として、少なくとも私が直接リーチできる自分のチームの仕事については、仕事の意味を定義して提示し続けて、「仕事をしている時間」を各自が「楽しい」と感じてもらいたい。

これが、「働き方改革」において「質」の伸び代が無限大と感じている所以です。

「雇用創出」に求められる「質」

自治体の企業誘致で○○人規模の「雇用創出」効果が見られた、という話もよくありますが、生産労働人口が相対的に少ない供給制約時代において「量」にフォーカスした「雇用創出」も虚しく響きます

個別の人を見ていくと、人は合理的判断に基づき働く場所や住む場所を選択していますから、無理やり作られた「意味を感じられない雇用機会」の「量」が増えたところで、そこには本当に集まってほしい人は来ないのです。

「雇用機会」においても、やはり量より質の観点の方が重要です。
どの業界も大抵人手不足ですから、仕事の内容を選ばなければ、雇用機会が全くないということは現実的にほぼないでしょう。

大事なのは、人が「働きたい!」「ここで頑張ってみたい!」と思える雇用機会がどれだけあるか。
優秀な若い女性が、まだまだ就職の段階になって地方から都市圏に出てくる傾向が強いのも、ひとえにここがポイントですよね。逆に言えば、地方部であっても「ここなら能力を発揮できそうだし、頑張ってみたい!」と思える環境が増えれば、優秀な人が集められるということです。
リモートでできることもかなり増えましたし、最近では真に優秀な人は「優秀な人を惹きつけてやまない」地域フィールドで活躍されている人も多いです。

「雇用創出」という文脈においても、働き手の数という「量」を国内で奪い合う構図で語ってしまえばつまらない「量」の話ですが、「質」に目を向けることで無限大の可能性が広がります

「豊かさ」に求められる「質」

一昔前までは、GDPが豊かさの指標でした。

しかし、一定水準のGDPを超えると、人の幸福度には相関関係が見られなくなってくるように、これも「質」の改善なしに「量」だけ向上しても仕方ないケースですね。山口周さんが指摘していましたが、平均寿命も40歳→80歳と2倍になることには一定の意味が伴うが、80歳→160歳の2倍になっても、それを魅力的とは思えないという論点も同じです。

先々月に「2週間の子連れオーストラリア旅行」に行った後にも振り返っていますが、「世界幸福度ランキング2024」では、日本は51位という寂しい結果です。

「一人当たりGDP」や「健康寿命」においては世界トップクラスである一方で、「寛容性」については、2023年ランキングでは世界ワースト3位と著しく低いという、まさしく「質」よりも「量」を追い求めてきた結果が数字に表れています

この結果を見て「仕方ない」と諦めるのは、私は絶対に嫌です。
せっかくこのいい時代に生まれてきたのに、自分が影響を与えられる身の回りの世界すら諦めてしまうのは、自分の子どもに対して胸を張れないからです。

オーストラリアに行き、「人生の豊かさ」を決定づける最も重要な指標は「寛容性」だと感じました。毎日の発信を通じて、純粋に「今の現実世界って、おかしくないか?」と感じることを言葉にして、小さな共感・共鳴を生み出していくことも、私なりにできることの一つになるかな、と考えています。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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