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16歳、それでも僕は「読者モデル」になりたかった

僕はこれまでおそらく100万字近く文章を書いてきましたが、恥ずかしくて今までひた隠しにしてきた本を読むようになった本当の理由とそこに辿り着くまでの軌跡を今回初めて書きました。

きっかけはけっこう単純で、今思うとバカバカしくて、それでいて真剣で、血生臭くて。

ありったけ曝け出したので、正直これだけは読んでほしくない気持ちでいっぱいですが、

それでも、僕の夢破れた人生を描くことで誰かに何かを届けることができるかもしれないと思ったので腹くくって書くことにしました。



ーーーーーー
16歳の頃、僕はどうしようもなく読者モデルになりたかった。

あぁ、恥ずかしい、初告白だ。

ちやほやされたかったのだと思う。


これがやっかいなことに小学生の頃、一番足が早かったから、放課後、靴箱にラブレターが入ってるなんてことがけっこうざらにあった。

小1の時点で周りからちやほやされるという気持ち良さを知ってしまっていたから、高校にあがり、思春期の真っ只中、"自意識"は悪魔のように肥大化していった。

だから「読者モデルになりたい」と思うようになったのは自然な成り行きだったんだと思う。


しかし、そんな自意識がへし折られるという事件が幾度となく起きた。

例えば、高校の帰り道。

僕は、ホウジョウとテラダといつも一緒にいた。

ホウジョウは当時大ブレイク中だった小池徹平に似てると言われていて、今は大阪でアナウンサーをやっている。

そして、そんなイケメンよりモテていたのがKAT-TUNにいそうな風貌をしたテラダだった。

この2人がいたから僕たちのグループは華やかだったんだと思う。

ある日、三宮(神戸)で遊んでいると、2人組の女子高生から声をかけられた。

「今、時間ありますか?」

逆ナンだ。

とても可愛らしい女子高生だった。

だからすぐに「あるよー」と意気揚々と真っ先に僕が答えると、彼女たちの誰とも目が合わなかった。


恐ろしくて足が震えた。この2人は僕なんて見ていなかったのである。「お前じゃねぇ」という顔をされた。

その後、僕は一言もしゃべらなかった。いや、しゃべれなかった。



ーーーーーーー
また別のある日、同じ高校の話したこともない女子からアドレスを聞かれた。

「おおお、ついにきたか」と思ってメールをしていたら、最終的に「ホウジョウ君のアドレス教えて」と言われた。目当ては僕じゃなかったのである。



「お前じゃねぇ…」
「お前じゃねぇ……」
「お前じゃねぇ………」



この言葉が再び胸の奥深くに、くさび形で突き刺さってくるのを感じた。

異性からどう見られるかばかり気にしていたのに、誰も僕を見てくれないーー




それでも僕は「読者モデル」になりたかった。

僕が高一の頃にKAT-TUNがデビューし、ドラマ『野ブタ。をプロデュース』や『ドラゴン桜』が話題だったので、山ぴーやKAT-TUNみたいな髪型をした。本当にいろんな髪型をした。

髪の毛の雑誌は隅から隅まで読み、誰よりも上手くセットできるようになった。


これは完全に黒歴史なので、今まで書いたことはおろか誰かに話したことすらない、もう"アラサーのおじ"になった今だからこそ話せる話なのだが、

母親にデジカメを買ってもらい、写真を撮ってもらった。

『ChokiChoki』か『FINEBOYS』かどっちか忘れたが、雑誌の最後のページに「読者モデル募集!」という項目を見つけ、自薦で応募しようとしたのだ。自薦だ。


母親に家で何枚か撮ってもらった後、どの写真を送ろうかと思って見てみたら、びっくらこいた。


驚くほどかっこよくなかったのである。


一枚も。全て。


自分は持って生まれなかった側の人間だったんだとすぐに察した。やっと悟った。違う、無理だ。死んだ。何かが、死んだ。


何事もなかったかのように、デジカメに保存されていた写真をそっと全消去し、応募すらせずに終わった。

読者モデルへの夢は驚くほどあっけなく終わった。


死んだのは"夢"だった。



なぜ僕はもっとかっこよく生まれなかったのだろう?



自分で自分の人生を恨む。

見た目がコンプレックスに変わった。

肥大化した"自意識の悪魔"ってヤツが暴走して、異性から自分のニキビ面の顔を見られるのが嫌で女子と一切話せなくなった。



ところで、この人間の「自意識」というものは過剰になるように進化してきたそうだ。


こんな研究がある。

自分の写った未編集の写真と、加工して見かけが良くなった写真、そして逆に見かけを悪くした写真など様々なパターンを用意してランダムに並ばせ、

被験者に自分の本来の姿が写っているもの選ぶよう指示が与えられる。


するとこの中で最も頻繁に選ばれたのは、10~20%もの魅力が上乗せされた合成写真だったのだ。


みなこれが自分だと美化された写真を選んだのである。

この研究から、多くの人が自分のルックスを「実際よりも20%増し」で考えていることがわかった。

だから多くの人はスナップ写真を見ると、自分の顔の写りがあまり良くないと思う。

しかし、それは残念ながらそこに写るのが実際の姿であり、頭のなかで思い描く自分の姿ではないからである。



では、なぜ人間は「自信過剰」に進化したのか?



それは自分への過大評価をほかの人の心に植え付けられれば、自信過剰は大いに役立つ可能性があるからである。

例えば、経験豊かな人事コンサルタントでさえ、相手が「博識」なのか「自信過剰」なのかを区別することはできない。

どの応募者を管理職に昇進させるかを決める際に、的確に自己認識ができている志願者よりも、自信過剰の候補者の方が推薦されることが多かったのだ。

自分を大きく見せようとする僕たちの傾向は、より多くの社会的な結果を、自分が何者かについて常に正直な態度を貫いていたら生まれえない結果を後押しするために発達したものだったのである。




……なんてことが進化論の本に書いてあった。

しかし、そんな進化の歴史を知ったところで、その自意識と現実とのギャップは埋まらず、苦しみ続けてきた。

高校生の頃の僕は「自分はイケメンではない」という厳しい現実を本当に受け入れられなかった。

髪の毛のセットだけは上手くなっていったので、自分は美容師になるもんだと思っていた。



そんな時だ。

たまたま雑誌を見ていたら、いつも美容院に「この髪型にしてください」と切り抜きを持っていっていた読者モデル・江口亮介さんの大学名が「慶應義塾大学」であることを知った。



パーーーッンと視界が開ける金色の音が聞こえた。



(僕も東京に行けば何かが変わるかもしれない、こんなろくでもない人生に彩りが生まれるかもしれない……!)


慶應の受験教科を調べてみると、「英語、日本史、小論文」のたった3教科しかないことがわかった。

たまたま英語と日本史は得意だったので、小論文さえ頑張れば、高3からでも間に合うかもしれないと思った。

さらに調べていくうちに小論文は差がつきにくいので、勉強しない人が多いと知った。

ここだなと思った。

小論文の勉強を始めた。誰もやらない小論文の勉強を始めた。必死に勉強した。もう自分の人生を変えるにはこれしかないと思った。がむしゃらに勉強した。死ぬ気でやった。

蜘蛛の糸なんてなくたって、自力で這い上がってやる。そんな気持ちだった。成功するかドロップアウトするかの二択だった。それぐらい逆境に立たされていた。

気付けば、慶應義塾大学文学部を第一志望にしている人というすごい狭い括りだけど、河合塾の模試で全国一位を獲るようになった。



だからこそ、ここで人生を変える出会いがあったんだろうなぁと思う。


「本」である。


本を貪り読むようになった。







本は読めば読むほど、自分の無知を思い知らされる。そして無知から未知へと誘ってくれる。これがどうしようもなく楽しかった。読めば読むほど、自分という人間に深みが生まれ、強くなっていく気がした。戦闘力を上げたかった。



(外見は変えられないけれど、内面なら変えられる!!!本を読めば、みんなから憧られるようなかっこいいオトナになれるかもしれない……!!!!)



それ以来、男は外見より中身だと言わんばかりに一切見た目を気にしなくなった。あんなに毎日気にしていた異性からの目も本当に気にならなくなった。

背後霊のようにつきまとっていた虚無感がついにここで消える。躍動した。

18歳の頃、降りたくても降りられなかった「見た目」や「外見」というもうどうしようもできない"デッドレース"から僕はついに降りることができたのである。





なりたい自分の理想像がある人にとって、自分の人生に折り合いをつけることはすごく難しい。はるか困難な道である。本気で生きている人にとって、やりたいことは続けることよりも辞めることの方が実はずっと難しい。

それでも、新たな夢を見つけることで、叶わぬ夢への折り合いをつけることもできるのである。


それから時は進む、10年後。

知り合いのとある女子高生・さくらちゃんから、


「私、森井さんのこといつも読者モデルだと思っています!かっこいい♡」


と目をキラキラさせながらいきなり言われたことがあった。



どどどどど読者モデル!?

俺が読者モデルだって?いやいやいや、先輩補正がえぐいよ、さくらちゃん。本当に笑ってしまった。


ホストとか美容師ぽいとか関ジャニ∞にいそうとかはまだギリギリ言われたことはあったけど、ピンポイントに「読者モデルみたい」と言われたことは初めてだったので、完全に忘れていた記憶が蘇り、当時のことが急にフラッシュバックされてきて、

今の僕はもうそこは目指していないけれど、かつての夢をやっと叶えられた気がして、遠回りはしたものの、当時の外見コンプレックスをやっと乗り越えることができた気がして、僕はどうしようもなく涙がとまらなかった。





■最後に

※「性の科学シリーズ」5日連続更新を終えて

この記事だけを読んだ方もけっこういらっしゃるかと思うので、少しだけ補足しておきますと、数ヶ月前に失恋しました。
(詳しくはこちら!)

一方的に振られ、それを機に自分と向き合わざるを得なくなりました。

自分の何がいけなかったのか、どこがだめだったのか。恋愛や性について書かれた本を15冊ほど読み、ネットの記事やYouTubeで恋愛について調べる毎日。

その過程で知り得たことを基に執筆したのがこの「性の科学」シリーズでした。

(「愛とは何か」みたいな深遠なるテーマで書いてみたかったのですが、ちょっとまだ僕には早かったですね。またいつかどこかで)

元恋人からの許可が降りず、最終的にお蔵入りにした記事も何本かあるのですが、失恋したことで自分と向き合い、上手くいっていたら、失敗していなければ絶対に知りえなかったこともたくさんあり、様々な気付きを得ることができました。

正直、今までは「女なんていくらでもいるっしょ」というスタンスだったので(僕みたいなもんが上から目線ですみません)、仮に振られても「はい、次!次!」とすぐに切り替えられてひきずるなんてことほとんどなかったのですが、

悲しみをきちんと体験することで、人間として成長することができた気がします。

「学生のうちに恋愛をしておけ」とアドバイスをしてくるオトナがいましたが、そういうことだったのかな、恋愛が青年を成長させるというのは、悲しみに直面するところから始まるのですね。

この失恋の悲しみをしっかりと受け止めることで、次、新たな恋をしたとき、愛する人と一緒にいられる喜びをより一層、噛み締めることができたらいいなぁと思います。



付き合ってくれて、僕と出会ってくれて、ありがとう。




■この5日間で書いた「性の科学」シリーズ


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■参考文献/オススメ書籍

『われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか』(ウィリアム・フォン・ヒッペル)

『恋ごころの科学』(松井豊)

大学生の頃、初めて便箋7枚ものブログのファンレターをもらった時のことを今でもよく覚えています。自分の文章が誰かの世界を救ったのかととても嬉しかった。その原体験で今もやらせてもらっています。 "優しくて易しい社会科学"を目指して、感動しながら学べるものを作っていきたいです。