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掌編『環七のラーメン』

「朝早く起きて浅草寺行ったよ」
「仲見世はもちろん閉まってたけど」
「でも人が少なくて良かった。今は外人も一杯だから」
「インスタで調べてカフェにも行ったの。モーニング」

環七通りの美味しいと評判の店に向かいながら、母親は言う。
もう五十代半ばというのに、そう見えないのは自分が母親の若い頃をよく見ていたからだろうか。それとも、今の姿をよく見ていないからだろうか。

「ようやくそういうの、一人でも楽しめるようになってきたなー」
「ていうか、一人でも楽しまないと損って気付いたんだよね」

その年齢で今更かよ、とか。でも一人でも楽しめるのはいいことだよね、とか。言うべき候補はたくさん浮かんでいたのに、なぜか口から出た言葉は

「さみしー」

思ってもみないことだった。
まるで機械が自動で受け答えをしたような、自分の中に組み込まれている社会が勝手に応答したような、そんな感覚だった。

「さみしーとか言うな」

母親が抗議する間も、私はその感覚について考えていた。
なぜそんなことを言ってしまったんだろうか。環七のようにぐるぐると思案しているうちに人気のラーメン店に辿り着いた。

確かにラーメンの味は美味しかった。
しかし店主の怖い顔と必ず向かい合わせになるカウンター席しかないこの店には、あまり来たくはないなと思った。



         *



それから五年。
結局あのラーメン屋には一度も足を運んでいない。
母親にも、一度も会っていない。

「お先に失礼します」

誰に聞こえるのかすら考慮していない声量でオフィスを出る。
上司も後輩も同期も、自分のことなど見ていない。定時を少し越えた18時過ぎ、職場の盛り上がる会話を背にビルを出た。

夏も近いこの時期の18時半は、ちょうどマジックアワーとでも言うべき時間帯で、ガラス張りのビルが立ち並ぶ丸の内を神秘的な青とオレンジで染めている。
行幸通りの中央ではいつも通り新郎新婦が前撮りをしていて、アシスタントが新婦のウエディングドレスをひらひらと靡かせている。その脇を険しい顔をしたサラリーマンが往来して、私も彼らと同じ速い歩調で駅に向かう。

東京駅から27分電車に揺られて、東高円寺駅で降りる。
地上に出てみれば、まさに23区の周縁といった感じのなんてことない景色に、どこにでもある牛丼チェーンと、どこにでもあるラーメンチェーン、あと銀行とコンビニが並んでいる。
住んで半年くらいは、新しい店を開拓しようなどと意気込んでいたこともあった気がするが、今では牛丼、ラーメン、牛丼を気分でローテーションする日々だ。

電車の中であらかじめテイクアウトの注文をして、お店で牛丼を受け取り、駅から徒歩15分の家に帰り、つまらないYouTubeのShort動画を見ながら食事をすませて、Twitterで見つけた適当な裏アカウントの動画で自慰をして、眠る。

それの繰り返し。

いつの間にか、私服を着るという習慣がなくなった。
肩の凝る背広と、着やすさしか考えていない部屋着のスウェット。

それの繰り返し。

いつの間にか、帰りにどこかに寄り道をすることもなくなった。
死んだ目をしてやり過ごす職場と、死んだように眠る自宅の往復。

それの繰り返し。



私は今年で28歳になる。
コロナ禍がやってきたのは24歳、社会人2年目の時だった。
だから私には職場の交友にも恵まれず、誰かと飲みに行くようなこともなく、娯楽すら楽しめないままでいる。

あのパンデミックによって、私は会社に対する帰属意識を失った。
ここに自分が属しているのだという感覚を失った。
もしくは、私は人生に対する帰属意識も失った。

言い換えれば、私は私に対する帰属意識を失ったのだ。
どこか自分のことを透明人間かお化けだと思って、街を歩いていた。


社会の中で、誰かに見える、実体の持つ人間として生きているという感覚を、私はあのパンデミックの中に置いてきてしまったようだった。


    *


「次のお休みの時、また東京行こうかな」
「前一緒に行った環七のラーメンとか、久しぶりに行こうと思ってるんだけど」

駅前のいつものラーメン店で、いつものラーメンを注文し、秘伝のタレと胡椒をいつものように入れている時に、そのLINEは届いた。
母親からのメッセージは定期的に送られてくるが、もう何年も返信していない。ただ既読だけをつけて無視している。

母親と一緒に環七のラーメンを食べたのは、私が新卒で入社する前日だった。入社式が4月2日の月曜日だったから、母親が地元から東京に訪れたのはエイプリルフールのことだったはずだ。
一度私の住むマンションが見たいとか言って来たくせに、家には30分程度いたくらいで、後は観光ばかりに付き合わされた。

その夜、新幹線の時間になるまで有楽町あたりの居酒屋で初めて母親と酒を飲んで、
「いいね、東京のお仕事って楽しそうで」
「これからなんでもできるね」
そう何度も母親は言っていた気がする。
多分何気ない気持ちで言っていたし、私も何気ない気持ちで聞いていただろう。

母親のLINEで、私は久々に当時のことを思い出した。
環七のラーメンの店主の顔が怖かったこと。味は覚えていないけれど、でも美味しいとは思ったこと。
なぜか母親に思ってもいないのに「さみしー」と言ったこと。

思えば、私はコロナ禍になる前から、同僚と飲みに行くことなんてなかった。
胸に期待を膨らませて入った大手商社では、周りの優秀な同期たちがいつも輪になって話していて、私はその中に入ることができずにいた。飲み会の誘いに呼ばれず、私は入社5日目で仕事を辞めたくなった。
もちろん、仕事を辞める度胸も自信も私には備わっていなかった。

コロナ禍になる前から、私は東京の景色が灰色に見えていたし、
コロナ禍になる前から、私は寄り道をしなくなっていた。

たまに、最寄り駅前のだだっ広い緑地公園で、さざめく木々をぼんやりと眺めるくらいだった。


いつものラーメンを食べた私は、久しぶりにその緑地公園に足を踏み入れて、よく座っていたベンチに腰掛けた。
すっかり暗くなった夜空には綺麗な月が輝いていて、でも星はあまり見えなかった。名古屋でも同じくらい見えなかった気がする。

思えば、名古屋大学に進学した時も、友達は大してできなかった。
サークルに入らなかった訳でも、研究室で不愛想な態度を取っていた訳でもなかったのに、私は他者と一定以上の仲になることがなかった。

周りの人間を、つまらない人間だと思っていた。
周りの人間とは、合わないとなんとなく思っていた。

もっと私と話の合う人が、私の価値を理解してくれる人が、ここではないどこかにいるはずだと信じてやまなかった。

きっと無意識でそんな邪な気持ちに支えられて、私は就活の時に勤務地を東京に絞ったのだろう。そして多分、新卒で入社したばかりの時も、同じように周りの人間はつまらない、合わないと腐していた。


夜風が冷たくなり、私は公園を後にした。
自宅に戻ると、姿見には五年前から随分と肥えた自分の姿が写る。入社したばかりは、腹が出ないうちに腹筋しておこうとか、思っていたような気もするが、一体何日続いたのだろう。

こんな醜い姿になってようやく、私は自分が人を見下していただけなのだと気付いた。人を見下しているから、人に見下されるのが恐かっただけなのだと気付いた。人と付き合っても自分が有能であると思わせられる自信がないから、人を避けていただけなのだと気付いた。

そして、あの時環七通りで母親に言った「さみしー」は、機械の声でも社会の声でもなくて、自分の本心だということにようやく気付いた。



    *


既読無視を決め込んでから数か月は母親からの電話が鳴りやまなかった。
母親の「これからなんでもできるね」が頭にこびりついて、なんにもできない自分の声を聴かせるのがとても嫌だった。

しかし、なんとなく産みの親育ての親をブロックするのが躊躇われて、仕方なく一度電話に出た。そして一言「はなしたくない」と一方的に吐き捨てて、電話を切った。
母親はすぐに「じゃあ既読だけはして。生きてるって分かればいいから」と送ってきた。私は自分の情けなさに申し訳なくなって、泣いた。


泣いても悔やんでも五年経っても私の性根は変わらず、顔の輪郭は丸くなり続け、母親のLINEは既読無視を続けている。

「じゃあ行くよ、ラーメン」

だから今日は、五年ぶりに返信をした。














この小説は、麻生競馬場さんの「この部屋から東京タワーは永遠に見えない」に感化されて書いたものです。







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