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「愛すべき最低さ」の幅を広げるとは。人や自分に対して潔癖にならないこと

最近、ドラマ「過保護のカホコ」の再放送をぼーっと見ていて、感じたことがあります。

ドラマの登場人物って、色んな人がいますよね。単純なものだと、いい人と悪役に分かれると思いますが、だいたいはそんな簡単ではなく、どんな人間でも色んな部分を持っていて、角度によってどんないい人も悪役になり得ます。

悪を断罪!スッキリ!みたいなドラマもありますが、過保護のカホコはそうではないですよね。

どう考えてもお母さんは過保護通り越して毒親やんとか、おじいちゃんすぐ拗ねるやんとか、親戚みんな癖強すぎるやんとか、登場人物に対して色々と思うこともありました。

それでも清濁併せ呑むというか、どんな部分があっても結局は家族だから愛しているといったような感覚がいいなぁと感じました。

これは無条件に「家族だからどんな人でも許せ、愛しろ」と言っているわけではありません。
親を許せなかったり、親戚などが嫌いだと思うことはあると思いますし、自分を守るために許せないことは許せないと思うべきだと考えます。

ただ、私をはじめ多くの人は、

人に対しても自分に対しても潔癖になっている

のではないか、そのせいで生きづらくなっているのではないかと思うのです。

「気が利かない」「時間にだらしない」「人の話を聞かない」などなど、
毎日私たちは無意識に良い、悪いと人に対して評価を下してしまっています。親や夫婦など、よく見えている近しい人に対しては特に感情的にそう思ってしまう傾向もあると思います。

そしてそれは、そうなってはいけないといつしか自分自身をも縛り付けていくのではないでしょうか。

ドラマを見終わったあとSNSで感想を調べても、そういうジャッジするような意見が多いです。
「主人公がなよなよしている」「この人のこういうところに嫌悪感」「あの人の言い分は間違ってると思う」などなど。
そう思うことは何も悪いことではないのですが、人に対して潔癖になってしまっている世の中の傾向がよく現れていると感じます。

人って本当に、正しいとか間違っているとかの次元ではなく「いろんな背景があって今はそういう人になっている」としか言えないのだなぁとつくづく思います。
そしていかに自分のものさしで人をジャッジしているのか、良い作品を見たり人と深く関わると考えさせられます。

人の良いところを見よう、なんて意見はよく耳にしますが、ここまで考えてみて思うのは、良いところなんかは誰でも愛せるけれど、短所を愛することが一番大切なんじゃないかということです。

いや、むしろ「長所」「短所」のカテゴリーを疑ってみるべきなのかもしれません。
私たちが「短所」と思い忌み嫌っているものは本当に短所なのか、デメリットがあるのか。誰かに実際迷惑をかけているのか、その誰かからも迷惑をかけられているんだからいいのではないか。

一般的に「長所」「短所」として上げられるものなんて、就活だの受験だののために都合の良い/悪いもので、人間としての良し悪しと繋がるものではないと個人的には思います。

他人や自分に対して「それは人として良くない」と思い込んでいるものの呪縛から解き放たれるとずいぶん楽になるように感じています。

それが

「愛すべき最低さ」の幅を広げる

ということではないでしょうか。
今まで自分が最低だと、許せないとしてきたことも、愛すべきものだと思えるようになること。

なんだか最低だけれども憎めない人っていますよね。そういう感情の幅を増やすイメージです。

そうするときっと人にも自分にも優しくなれるだろうし、ジャッジしないフラットな、深い関係を人と持てるような気がしています。

過保護のカホコでは、なんだかんだ揉めつつも、すぐ拗ねるおじいちゃんの扱いをおばあちゃんや娘が分かっていたり、「扱い方を知ってる」みたいな場面が見られました。
そういう、良い悪いは別として「付き合い方を知る」みたいなものが「人を知る」ってことなのかもしれないですね。

そういうふうにフラットに「人を知る」ことができたら、人の弱さや癖みたいなものも、愛すべきものと受け入れられるような気がします。

無駄にジャッジせずに人や自分を受け入れられたら、きっと生きるのってもっと楽で楽しいものになると思います。
私はまだまだ潔癖ではありますが、そうなれたらいいなぁと感じています。

今回はこのへんで。
少しでも何か参考になりましたら幸いです。
長々と拙い文章読んでくださった方、ありがとうございました🌻

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