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変な人 (37)紀伊國屋書店の、村上春樹を売ってほしい男。

「村上春樹の一番面白いやつ売って」と、その男はねじ込んでいた。

 場所は新宿紀伊國屋書店本店。
 その“にいちゃん”はレジカウンターの店員に向かって少し股を開き、背中を曲げるような典型的な“ちんぴらにいちゃん”ポーズでこう言った。
「村上春樹の一番面白いやつ売って」
「えー、村上春樹さんのどのような作品をお探しですか」
「だからさ、いちばんおもしろいやつ」
「すみません、ちょっとここでは……」

 この男の身の上にいったい何が起こったのか。
 知り合ったスケ(女性のこと)から、
「わたし、村上春樹が好き」
「村上春樹の小説に出てくる人って素敵」
なんてことを言われたのかもしれない。
 そして男は「ならば」と日本で一番有名な本屋で聞けば、手っ取り早く村上春樹の一番イイ奴をパパっと買えて、スケと文学の話ができるのではないか、そう考えたのかもしれない。
 これが「傷だらけの天使」のショーケンだったりしたら、かなり切なくてかっこいい姿なのだろうが、素でやっている男を目の前で見ると、いろんな意味で切なさと痛々しさだけが迫ってくる。

純粋理性批判だぞ、
突然双子が隣に寝てるんだぞ、
羊男だぞ、
スバルと心を通わせるんだぞ。

 明らかに人生で初めて本屋に来た男。
 そんな男に村上春樹の話を持ち掛ける女。
 今のご時世、どんなきっかけだろうが本を読み始めてくれるのはうれしいが、純粋理性批判だぞ、突然双子が隣に寝てるんだぞ、羊男だぞ、スバルと心を通わせるんだぞ。
 本を読んでくれるなら、もっと君に合ったお勧めがあるぞ!
 目の前の切ない男を見ながらそんなことを思ったりもしたが、ふと考え直してみた。
 たとえば料理屋さんに行って、何を頼めばよいのか分からない場合、
「お勧めは何ですか?」
と尋ねることがある。
 お店側も「うちは全部がお勧め」なんてヒネクレタ主人じゃなかったら、ていねいに教えてくれる。
 そう考えれば、ちんぴらにいちゃんの行動は案外的を射ている。
 店員さんも「デビュー作の『風の歌を聴け』から読まれるとよいですよ」くらいは答えたってよいかもしれない。
 ついでに、
「『仁義なき戦い』というアナタにドンピシャの本もあるのですが、いかがでしょう」
くらいのことを言って、本の世界に引き込めば、本も売れるし世の中が少し良くなるかもしれないではないか。

「え? わかんないの? 本屋さんでしょ、ここ、有名なとこでしょ」
「はい、そうなんですけど」
「じゃ、どこ行けばいいの?」
 カチャカチャ。手元でパソコンを操作。
「あの10番の書棚に村上春樹さんの本が並んでいますので、ご覧いただければ」
「そこに行くとわかるの?」
「本の帯にいろいろ紹介が書かれておりますので」
「帯?」
 ああ、いろいろ教えてあげたい。
 でもなー、この男と村上春樹の話はしたくないしなー。
 なぜか私までがうずうずした感情に包まれるのであった。


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