中国人のアレクサンドリア、多言語都市のアレクサンドリア
「僕はアレクサンドリアで生まれました。父は山東省出身の中国人で、孔子が生まれたところです。母はギリシャの島出身です。僕はずっとアレクサンドリアに住んでいます」
いきなり何のこと?という感じですが、アレクサンドリアの生まれ育ちの中国人とギリシャ人のハーフの男性の話です。なぜこの方の話がでてくるかといえば、私の書いた歴史小説「エジプトの狂想」に関連しています。
小説は三つのパートに分かれ、
1フランスのエジプト
(マニアックな観点に特化しました)
2エジプトにおける、マケドニア出身のムハンマドアリ王朝
(エジプトのハーレムを探り、思わぬ事実を発見し驚きました)
3アレクサンドリアの外国人社会
(この記事に関係します)
これを書いている最中に、
「アレクサンドリアに東洋人も住んでいたのかな?」
と探し、明治時代、大正、昭和初期にアレクサンドリアを「訪れた」日本人の子孫は見つられたのですが(一人はご近所で、元々私のライン友達!驚きました)、アレクサンドリアに「住んでいた」日本人にはいなかったのかな、見つけられず。しかし冒頭の中国人の存在は発見、そのお話が非常に興味深いです。
「ヨーロッパのほとんどの都市よりも国際的な中心地でした」
19世紀から1952年までのアレクサンドリアもカイロも(特に1900年代初頭)、当時のヨーロッパのほとんどの都市よりも国際的な中心地でした。
どちらの街にも大勢の外国人が住んでおり、多くの宗教、言語が混在し調和していました。
エジプト人でも(むろん庶民は除きますが)女性は最高級のヨーロッパの服を着、男性はきちんと仕立てられたスーツとフェズの帽子(赤いトルコ帽子)をかぶっていて、人々は自由に意見を言える時代でした。
当時のアレクサンドリアをどのように調べた?
多様性があった国際的な時代のアレクサンドリアをちゃんと書きたいと考え、しかしエジプト側にはこの時代ーすなわちマケドニア人王朝時代の資料がないのに等しいため、まずアレクサンドリアの移民が多かった国籍から調べました。
すると、もっとも多かったアレクサンドリアの外国人はイタリア人とギリシャ人というのが分かり、今度はその二カ国の移民の歴史から入っていきました。どうにか当時のアレクサンドリアが見えてきました。
さらに街の建築はイタリア人というのが分かると、イタリアの建築歴史を探し、彫刻とオペラ&演劇文化はフランス人、銀行創業はギリシャ人というのが分かると、それぞれの国のサイトに入り、また専門書を探し、それらからも辿りました。余談ですが、今洋書がべらぼうに高いのにギョッです。
しかし出典元や子孫?によって証言も食い違いがあり、コレラ感染源を運んだ船の名前ひとつとっても「サンタ・ルチア号」「サンタ・マリア号」「ベラ・ドンナ号」…。どれなんだ!?とか、同じ年におけるギリシャ人移民の数字も「20万」「120万」などまったく違う…😱
当時の広場の名前、ストリート、地区の名前、店名も目を通す出典元、話をしてくれる人によって食い違いだらけ…。おかげでほつれてほつれまくった毛糸をせっせとほどいている気持ちでした…。よって小説ではあえてアレクサンドリア街の中の位置関係、地図の説明はぼやかしました…。
イタリア人とギリシャ人の多いアレクサンドリア
どういう街なのか簡単に私流の見解で書きます。
言わずとしれた、ヘレニズム時代にマケドニア出身のアレキサンダー大王が「多様性」を目指しいて作った地中海の街です。しかしその後、支配者が変わり、この街は寂れました。
1805年にマケドニア出身アルバニア人のムハンマドアリがエジプト総督の座にうまいことつくと、アレキサンダー大王時代のアレクサンドリアの街の復活および近代化に着手し、大勢の外国人移民を受け入れます。
アレクサンドリアの外国人ー
もっとも多かったのは、前述のとおりイタリア人、次にギリシャ人、そしてアルメニア人、ユダヤ人、シリア人、シロ・レバノン人、マルタ人などでした。よってこれらの国々の近代史もばんばん読んでいきました。そこの国の歴史、背景が分からないと移住(移民)の動機や状況が見えないからです。
そして、この外国人の人口も各国の歴史と照合すると分かりやすく、
例えばイタリア人はファシズム時代に入ると一気にアレクサンドリアに入ってきております。その前にも1882年にイタリア人が大勢アレクサンドリアに入って来ており、その理由がなるほど。
イギリス・エジプト戦争で、イギリス軍がアレクサンドリアの街を爆破しまくりました。その再築のため、ローマ建築専門学校を出た若手イタリア人が大勢入って来ました。ところで、エジプト方言アラビア語にはイタリア語が多く入っており、それだけ移民も多かったということなのだと思います。
ギリシャ人はギリシャのオスマン帝国からの独立後にどかんと移住しています。それはギリシャが独立したことにより、むしろ納税額が大幅に上がり生活苦になったからのようです。しかもアレクサンドリアに移住したギリシャ人は全員島出身で、本土より貧しい層が多かったのだろうなというのも伺えます。
アルメニア人はオスマン帝国による迫害とシリアで大虐殺が起きたそれぞれの時代に大勢アレクサンドリアに移っています。
多言語都市アレクサンドリア「ちゃんぽん語」
色々な国から移住者が集まり共通語は何だったのかなと、これもチェックすると、やはりフランス語。ユダヤ人学校でも授業がフランス語で、ギリシャ人夫婦の間の会話もフランス語。
ただし子供などはほとんど「ちゃんぽん」でフランス語、エジプト語、英語、イタリア語、ギリシャ語を器用に使い分けていることが多かった。
カイロでは英語とアラビア語がメインになっても、この街では多くの言語の新聞が売られ、カフェではテーブルに座る人々の広げる新聞が全部異なる言語の文字というのは当たり前でした。
証言を合わせると、だいたいこんな図式です;
「イタリア人が建物を建築し、フランス人が彫刻を施す。そこにイギリス人がレストランを構え、バイエルン人がマネージャーでギリシャ人が厨房で料理を振る舞う。スイス人は経理を担当。客として今夜のオペラを観賞するまたは仮装舞踏会へ行く前のフランス人がやって来る」
文化も融合し、例えばギリシャエジプト音楽、料理も誕生。1930年代以降はどんどん「英語」もしくは「イギリス文化」も入りますが、それでも一般的にフランス語が主流で、建築家も相変わらずイタリア人が多く、ギリシャ人とイタリア人の経営するパティスリー、カフェ、レストランが圧倒的に多いままでした。(そりゃあ、イギリス料理に入られても、、、🤣)
興味深いのが、アレクサンドリアの外国人の子孫たちから話をきくと全員口を揃えていうのが
「一切差別や上から目線などなかった」。
この証言だけは感心することに全員一致しています。食い違いがありません。いかに寛容で多様性のある街だったのか、伺えます。
第二次大戦中も国籍人種関わらず互いに助け合い、敵国のイタリア人が収容所に連れて行かれる時、人々は彼らを匿ったり収容所に差し入れもしました。ちなみに英軍が用意したイタリア人収容所の名前は「キャンプ・シーザー」!。さすがイギリス人。ネーミングセンスがモンティ・パイソンのお国柄だけあります。
アレクサンドリアの中国人
アレクサンドリアがこういった街だったというのを念頭に、、、、
冒頭の中国人の方のお話の続きです。
「僕はアレクサンドリアで生まれました。父は山東省出身の中国人で、母はギリシャの島出身です。ずっとアレクサンドリアに住んでいます。
最初、1929年に父はエジプトに渡り、1936年にアレクサンドリアに移りました。なぜなら当時の中国の政治情勢は非常に悪く、一人息子だった父のために祖父が
「状況が好転するまでしばらく中国を離れて、またいずれ帰国しなさい」
祖父はそう望み、一人息子の父を外国に逃しました。
その父がなぜ避難先にエジプトを選んだかというと、中国にいたムスリムのエジプト人が
「エジプトは繁栄して素晴らしい国だよ」
と勧めたからでした。
「豊かな国で気候はいいし、ビーチもたくさんある、最高だよ」
父はエジプトについて何も知らず、砂漠とラクダのイメージしかなかったのですが、あまりにもそのような話を聞かされたため、興味を抱いたのです。
カイロからアレクサンドリアに引っ越しをしたのは、アレクサンドリアは素晴らしい国際都市であり多言語都市だったのと、中国骨董の仕事のし易さからです。しかし父はアレクサンドリアでほぼ唯一の中国人でした。
第二次大戦が勃発しました。地中海の英軍艦隊船には多くの中国人やインド人の海兵船員が乗っており、ドイツ軍とイタリア軍と戦うためにアレクサンドリアの港にやってきました。というのもインドは大英帝国の一部であり、中国は同盟国だったからです。
アレクサンドリアには中国領事がいましたが、何もやらない、関わり合いを持とうとしない人物だったため、父がイギリス軍の中国人海兵たちのための世話や面倒をみました。
彼らはストレスが溜まっているようだったので、父は中国政府の監督下にある私的な中国人海兵専用クラブのようなものを設立し、そこで中国人海兵に食事や酒を楽しませました。(*ローロー追記ですが、イギリス軍は階級制度が厳しく、英領国軍隊の兵士らは入場できないホテル、クラブ、レストランが多かったので、恐らく中国海兵も遊べる場がなかったのだと思います)
父は孔子の教えに忠実でしたが、アレクサンドリアの街でギリシャ移民の娘だった母に出逢い、結婚するためにキリスト教に改宗しました。聖サバ教会で洗礼を受け結婚式も挙げました。
父の仕事は中国の骨董屋だと既に言いましたが、中国各地から輸入し、エジプトで販売していました。
もちろん、一番の顧客はエジプト王室とエジプトの上流社会、特にギリシャ人とユダヤ人でした。(*ローロー追記ですが、エジプトの宮殿について調べていると、結構中国の骨董が飾られていたことが分かり、どこから仕入れていたのかな?と調べたらこの話に行き着きました)
もちろん、フランス人やイタリア人、イギリス人の富裕層も大勢いましたが、ギリシャ人とユダヤ人が最も中国の骨董を愛し、良い顧客となっていました。
友人として親しくしていたのはギリシャ人、ユダヤ人、アルメニア人、イタリア人でした。父は英語が得意でエジプト語は苦手でしたが、多少のギリシャ語も話していました。
母は中国語が上手でしたが、家族では英語でコミュニケーションを取っていました。
私自身の第一言語は英語で、その次にギリシャ語と中国語で、今でもアレクサンドリアに住んでいます。
1952年のエジプト革命ではアレクサンドリアの外国人はみんな無一文になりここを去りました。しかし私たち家族はアレクサンドリアに残り住み続け、私は今でもアレクサンドリアにいます」
アレクサンドリア・ルーツ・リバイバル
ガマール・アブドゥール・ナセルがアレクサンドリアの貧困街の通りにある泥レンガの家で生まれたのは1918年です。1952年にクーデターを起こし、国民の反植民地感情を高め汎アラブ主義構想を掲げます。
これでカイロのみならず、アレクサンドリアからも外国人の大半が去りました。彼らの事業、財産は全て没収され国有化されたので、文無しでエジプトを離れ、ギリシャ人などはオーストラリア移住かギリシャ本国に帰国。
しかし近年、あのオナシス財団がスポンサーになり、ギリシャ・キプロス・アレクサンドリアの「アレクサンドリア・ルーツ・リバイバル」に動き出しています。
つまり、
「当時のアレクサンドリアのギリシャ人の子孫、帰って来て下さい」というわけです。ちなみにエジプトとギリシャはクレタ島文明の時から関わり合いがあります。エジプトと一番長く特別な関係にあるのは、やはりきっとギリシャでしょうね。
さらにアレクサンドリアのイタリア建築修復プロジェクトも開始され、景観の上でも文化の上でも国際都市時代を復活させようと始まっています。
植民地時代とは
私が質問した、あるアレクサンドリアっ子のエジプト人の言葉です;
「祖父たちから聞いていたのは、外国人が一斉にいなくなって、多言語が混ざっていた子供の遊び声が通りから聞こえ、非常に寂しかったという思い出です。そしてイースターやクリスマスの食事にも呼ばれることがなく、つまらなくなったと。
あの時代を思うと、アレクサンドリアのエジプト人はみんな喪失感そしてノスタルジーを覚えますね。何が良い植民地主義で何が悪い植民地主義なのだろう…」
追伸
「エジプトの輪舞」、修正をしました。なぜならごめんない、入力ミスがいくつもあったのと(言い訳として、これだけの、無いなりに膨大な情報量と文字数、しかも外国が舞台。大変ですm(_ _)m)、
今回の「狂想」を書くのにあたり、ここで書きますが、ムハンマドアリ王朝の一族の家系がネットに出ているものや本に書かれているものとは実は違うということを見つけました。
正確には間違っていないのですが「養子」について、それらの出典元には一切ふれていないのです。それを発見し、あまりクローズアップさせなくてもいいかなと思ったものの、養子の系統が跡継ぎになっていくので、無視できませんでした。
そこで、それに関わる箇所は「エジプトの輪舞」でも書き直しました。
さらに、「輪舞」下巻の最後に「エジプトの狂想」の第一章、第二章を付録でつけましたが、それも全部書き直したので、この部分もまるで変わりました。
万が一、二度目も読んでくださる奇特な方🤣がおられましたら、お手数ですが最新版再ダウンロードを宜しくお願いします。
もしゼロから読んでみようと思ってくださる方がおりましたら、「狂想」が先の方がいいかもしれません。その方が、「輪舞」を読んでぐっとくるかも。
ただし文字数は多いですし、興味ない方には少しも面白くない歴史解説も入っており、エジプトを知らないと全然つまらない可能性も高いです。なので、好きな方以外はやめたほうがいいです🤣
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