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エジプトの宮殿(サライ)

 エジプト最後の王朝、ムハンマドアリ王朝(別名アルバニア人王朝)は1805年〜1952年ですが、その間ヨーロッパスタイル(特にベルサイユ宮殿を手本にした)の華やかな宮殿が沢山建てられました。そのためにフランスのみならずイタリア、オーストリア、ドイツなどから大勢の一流建築家らをエジプトに招いています。

 昔、エジプト国営社でエジプトの宣伝の仕事をしていた時、
「エジプトの宮殿巡りツアーも作りたい、テレビ番組で企画を出したい」
と観光スケジュールや番組企画書を作成しました。ところが日本側の旅行会社にもテレビ制作会社にもまるで相手にされませんでした。
 確かにエジプトといえば古代の神殿です。「宮殿」よりも「神殿」見学優先なのもご尤もです、、、。あと当時はエジプト革命(1952年)以前の(エジプト在住の)外国人/王族/パシャ(特権階級)の宮殿やVILLA(邸宅、屋敷)は「タブー」だったことも大きかった。

 非常にがっかりしましたが、やっと近年エジプトの数々の宮殿は評価されているようです。感慨深いです。ぶっちゃけヨーロッパ本土の宮殿より豪華絢爛な素晴らしい宮殿がエジプトにはいっぱいあり見応えあります。

 小説「エジプトの輪舞(ロンド)」 と近いうちに出す予定の「エジプトの狂想(ラプソディー)」にこういった宮殿のことを色々書けて長年の鬱積を晴らせました。別に小説にご興味がなくても、よければ以下↓エジプトの宮殿の一部を御覧ください🏰。


サフラン宮殿(ファルーク国王の生まれた宮殿)(カイロ)


 香辛料のサフラン畑があった場所なので、この名前です。建設はフランスで教育を受けたモグリ・ベイ・サイードによるもので、ベルサイユ宮殿のレプリカです。 完成したのは「エジプトの狂想(ラプソディー)」(近日発売予定)に出てくるイスマイール副王(ファルークの祖父)の時代です。ファルークの母親ナズリ王妃のハーレム(イスラムの女性専用住居)で、ファルークはここで生まれました。 
 革命後、大学の一部(事務所)になりましたがその後博物館になりました。ムハンマドアリ王朝時代のヨーロッパスタイルの宮殿(サライ)がやっと評価されるようになったと思います。私がエジプト留学していた時は、誰も見もしないという無関心な感じでした。

アブディーン宮殿(ファルーク国王の育った本宮殿)(カイロ)

アブディーン宮殿1931年。背後にムハンマドアリモスクが見えています。
アブディーン宮殿の「ビザンチン様式ルーム」は有名です

マニエル宮殿(カイロ)

小説でムハンマド・アリ・タウフィク王子が出てきます。ファード国王が亡くなった時、ファルーク王太子がまだ未成年だったので、身内のムハンマド・アリ・タウフィクは「こりゃ自分に順番が回ってくるぞ」と先走り、住まいのマニエル宮殿に早々素晴らしい王座の間の部屋まで増設しちゃうのですが、彼のこの宮殿は素晴らしい。見応えあります。
なお、ムハンマドアリ・タウフィクは病気だらけで床に伏せていたのに「エメラルドグリーンの宝石を身につければ元気になる」と謎の占い師に言われたら、本当にそのとおりになり彼は亡命先ジュネーブで随分長生きしています。
この宮殿は私の留学時代は放置されている感じで、一部のマニアックなドイツ人などしか見に来ていませんでしたが、最近ようやく有名になったんじゃないかと思います。お庭も素晴らしかったですが、今はどうかな?
金が好きなところにエジプト(アラブ)人らしいセンスが伺えます。
モスクの部屋です。ヨーロッパのお城にも教会が
設置されていますが、エジプトの城や屋敷にはモスクが設置されています。

ラス・エル・ティーン宮殿(アレクサンドリア)

私の小説「エジプトの輪舞」でも「エジプトの狂想」でも一番重要になる宮殿です。ラス(岬)・エル・ティーン(無花果いちじく)宮殿といいますが、かつてはいちじくがいっぱい生えている場所(岬)でした。
「エジプトの狂想」で書きましたが、この宮殿を建てるためにギリシャ独立戦争が終わり無職になったギリシャ人の退役軍人らを呼び寄せ、工事現場で働かせました。
もちろんラス・エル・ティーン宮殿もベルサイユの宮殿の影響を受けています。
カイロのアル・コバ宮殿とアレクサンドリアのラス・エル・ティーン宮殿は王族専用列車で繋がれ、それぞれに王族専用駅ホームもありました。電車はファード国王時代はイギリス製で、ファルーク国王の時代になるとイタリアのフィアットに作らせたディーゼル機関車で、それは中東初のディーゼルでした。
国王一家は毎年五月から十月に入る前までアレクサンドリアの宮殿で過ごし(ラスエルティーン宮殿とモンタザ宮殿を行ったり来たり)、そこからヨーロッパに足を伸ばしたりもしていました。

モンタザ宮殿(アレクサンドリア)

モンタザといえば、モンタザ・シェラトン・ホテルでしたが、革命前まではモンタザといえば宮殿でした。
ここも国王一家の夏用宮殿で、アットホームな宮殿だったとファルークらは言いますが、どのあたりが「アットホーム」なのか日本の普通の狭い家育ちの私には???です。
ここに王族の子どもたちが遊びに来ると、毎回毎回ダイヤモンドなどの手土産をもらえたそうです。そんな叔父さんがいれば私も毎日訪問をしたと思います。

ハインリッヒ・ビンダーナーゲルのヴィラ(アレクサンドリア)

小説には登場させていませんが、フランクフルトーアレクサンドリアの間でエジプト綿貿易業で大成功し大金持ちになったドイツ人のヴィラ(邸宅)です。彼はアレクサンドリアに長いこと住んでいました。イタリア人建築家によるとても趣味の良い邸宅だと思いました。
「エジプトの狂想」ではアメリカの南北戦争のせいで、エジプトのコットン輸出バブルが起き、「エルの輪舞」では朝鮮戦争(米国が出てくる)でエジプトのコットンがまた売れたというエピソードを書きました。アメリカが戦争に関係するとアメリカのコットンの輸出に問題が生じ、そのすきにエジプトが儲けるという目から鱗です。

ファルーク国王の狩猟用別荘(ファイユーム)

カイロから100kmほど離れたファイユームにファルーク国王の狩猟用別荘がありました。でも行かなくなり(とても太ってから狩猟自体しなくなった模様)、ホテル会社に売却しました。小説に登場させましたが、ここでチャーチルとサウジアラビアの国王が「密談」をしました。
それぞれプレゼント交換の時間担った時、イギリスが贈った贈り物とサウジアラビアが用意した贈り物があまりにもレベル、スケールが違い過ぎてしまい、冷や汗をかきあわてたチャーチルがある言い訳をついべらべら言ってしまいます。ちょっと気持ち分かりました。私も仲間とプレゼント交換で、あまりにも素晴らしい物を贈られた時に焦った経験があります。
暖炉の上に今だに飾られているチャーチルの写真。
現在でもホテルは営業しており、ファルーク国王スィートルームもあります。でも別荘時代にファルークの寝泊まりしていた部屋に私は別に大金払って泊まりたいとは全く思いませんな。

参照


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