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Twitterの海を抜け出した話

電子の海から飛び出した

あなたは「INTERNET YAMERO」という曲を聞いたことがあるだろうか?

この楽曲は『NEEDY GIRL OVERDOSE』という承認欲求や病みに象徴される平成のインターネットを題材としたインディーゲームから生まれたものである。心のか弱い女の子「あめちゃん」はインターネットエンジェル(配信者)の「超てんちゃん」として活動しており、プレイヤーは彼女とともにフォロワー100万人を目指すというゲームである。

ところで私の自己紹介はさておき、私は自身を多少メンタルの強い人間であると信じて疑わなかったのだが、案外そうでもないらしいと実感する出来事が一週間前にあった。サークルの楽曲制作担当として全力で作曲をしたのだが、発表の場で改めて聞き直した時にそのクオリティの低さにひどく落ち込んでしまったのだ。もちろん作曲をはじめてまだ1年にも満たない小童であることは承知のうえで、こんなクオリティしか出せない自分の悔しさに、そしてともに創作をした友人たちに対する罪悪感に押しつぶされ病んでしまったのだ。

これほど病んだことなんて人生で一度もなかった私は感情の吐き出し方もよくわからずに、Twitterに30文字も満たない呪文を投稿し続けた。ある程度落ち着いたころ、フォロワーのTLを荒らし続けていたことに気がついた。いくら思考の外部装置として運用している私も気が引けたので、幾分かログアウトすることにした。その先で私は数年ぶりにTwitterのない生活を営んだわけだが、そこで私は多くの変化や発見に驚かされた。今回はこの体験を記事にまとめようと思う。

文章への渇望

ログアウトした次の日、私はさっそくとあるもどかしさに直面していた。ふと集中力がなくなったタイミングでスマホを触るのだが、開くアプリがどこにも見当たらない。普段であれば間違いなくTLを眺める時間に充てていたのだが、あいにくその窓は封印していたため覗くことは許されない。あまりの手持ち無沙汰に自分でも驚いてしまったのだ。SNSはギャンブルの中毒性を応用したサービスであると糾弾されて久しいが、それを話として聞くよりも実感した時のほうがひどく恐ろしく感じた。

しかし私はすでに重度のTL中毒者だ。定期的におもしろい文章を読まないと死んでしまう、そんな不治の病にかかってしまったのだ。だが戒めによりTLを見ることは許されない。そこで私は喫煙者が禁煙を行う度酒でおぼれてしまうように、本を読むことにした。

ときに私は生粋の積読主義者である。積読に関する諸考察は別の機会に譲るとして、自室の収納には関心のある本がずらりと顔をのぞかせている。今週はそれらの中から今井むつみ先生と秋田喜美先生による共著「言語の本質」と伴名練氏の「新しい世界を生きるための14のSF」を中心に読んだ。

読んでいる途中ではあるが、どちらも筆舌しがたいくらいにはおもしろいのでオススメだ。気が向いたらnoteで感想や雑記を書くこととする。

かつての高専時代は通学中の電車で読書する習慣があったのだが、大学に入ってからは徒歩圏内のため読書のタイミングを設けることが難しかったのだ。まとまった時間で読書をする機会を用意することの重要性について再認識をしたのであった。

自分の物語から他人の物語への撤退

最後に自分が行った行為について別の視点から分析してみようと思う。そこで導入するのが、宇野常寛氏の『遅いインターネット』だ。

この本では現代の加速し続けるインターネットに対するアンチテーゼとして草の根活動的な運動論について述べられている。インフォデミックを予見した本として注目を集めていた本書だが、中でも第2章の「文化の四象限」について紹介する。彼は横軸に非日常―日常の軸を、縦軸に他人の物語と自分の物語を取ることで図的に分析ができると述べている。


図1 文化の四象限 (宇野常寛著『遅いインターネット』より作成)

詳しい分析は本書に譲るが、工業社会から情報社会への移行に伴って「他人の物語」から「自分の物語」へ、「モノ」から「コト」へと価値の中心が移動した。人々は他人の物語の物語に感情移入することよりも(それがどれほど凡庸で陳腐なものだったとしても)自分の体験を発信する快楽のほうが強いことに気がついてしまった。

彼はそういった分析を行ったわけだが、私のTwitterは自分の物語×日常の第三象限である生活に基づいた運用を行っていた。具体的にはいわゆる潮目に流されないように注意しながら思考を垂れ流す形態をとっていた。さらに1週間で発信を消去するというルールを掛け算することでマルチスタンダード性というか、意見にゆらぎのような幅を持たせることができるようになったのだ。このような特殊さを見て、周囲と違う自分に酔っている思われるかもしれないが、それよりは他人と同じことをしたくないというのが近いと思われる。

しかし、この手法にはある重大な欠陥を抱えていた。あまりにも精神の輪郭が規定・増幅されすぎるのだ。文字起こしとは頭の中にあるモヤモヤな思考の雲を手で押し固めていく行為に等しいと考えている。人間が先入観に囚われてしまうように、脳も押し固められた文章の形をそのまま納得することで増幅されてしまう。例えば75%のAと20%のBと15%のCという思考に対して単純な言語化を行うなら大体Aと圧縮されてしまう。この過程は非可逆的なもので一度納得してしまうとBやCは多く失われてしまう上に、Aは増幅されてしまう点が厄介だ。これはまさしくTwitterの140字制限というルールのもとで発生しやすい現象であると考えられる。

図2 雑な言語化のイメージ

そして私は例のように、ネガティブな思考の雑な圧縮で増幅され続けて病んでしまったのだ。そして言語化のプロセスから離れて読書に浸った。これは言い換えるなら「日常×自分の物語」にのめり込みすぎた結果として「(非)日常×他人の物語」へ撤退したと考えられないか。決して悩みは解決したわけではないが、メンタルを落ち着かせることはできたのでひとつの方法論として有効ではないかと考える。

何度でも電子の海に潜る

一週間の時を経て私はTwitterに帰ってきた。物理的に例えるなら、熱励起した電子が原子の束縛から抜け出したとしても、温度が下がってしまえば最終的に基底状態に帰ってくるように私もTwitterからは逃れられないようだ。しかし今回思いついた定期的ログアウト運用論と並行して、丁寧な言語化をしばらく実践してみようと思う。

最初に紹介した「INTERNET YAMERO」の結論として、あめちゃんは「インターネットは最高」とうたっていたが、私は決して手放しに絶賛することはできない。だが新たな泳ぎ方を覚えた今なら、明るい景色がみられると信じている。

最後まで読んでくれたあなたに最大限の感謝を述べさせていただく。

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