難解な文章が嫌い

 最近浅田彰の「構造と力」が文庫化されたみたいで、ポストモダン思想かぶれみたいな人がイキイキしている。「難解な文章」について考えてみた。

 「言語」というのは「実践」であると考えている。もっと分かりやすく言えば「道具」だ。何かの目的のために「言葉」を使う。言語ゲームだ。相手に何かしらの「影響」を与えるのが言語という道具である。だから、自ずとその目的によって、文章や喋りの形態も変わってくる。
 
 ヒトラーはプロパガンダの原則として
・テーマや標語を絞る
・あまり知性を要求しない
・大衆の情緒的感受性を狙う
・細部に立ち入らない
・信条に応じ、何千回と繰り返す
 を挙げている。
 大衆を扇動して、政治にデカい波を起こすには「難解さ」は邪魔だ。的を得ていると思う。

 文章に対する評価として「美しい/醜い」「散文的/詩的」「面白い/退屈」「理論的/感情的」など様々にあると思うが、動機や目的によって、言葉を使い分けるのが、品性とか知性にとって必要だと思う。

 僕は、難解な文章に生理的な嫌悪感を覚える。カントやヘーゲルやハイデガーあたりまでは「無理やり難解にしている」という感じはなく「仕方なく難解になった」という言い訳ができる。フーコー、ドゥルーズ、デリダあたりはわざと難解にしている。この人たちのテクスト実践に対して評価するのは難しいが、当時は難解にする必然性があったのかもしれない。「構造と力」のタネ本になった人たちについてあれこれ言うつもりはないが、正直僕はこの人たちも胡散臭いと思う。

 Twitterやnoteで難解な文章を書いている人に対しては、まず「親切じゃないな」と思ってしまう。常識的に考えて、「読みやすい文章」を書く方が、読み手に対して親切だと思う。なぜ読み手に親切にしないんだろうか?と考えると、「他者を軽視している」としか思えない。

 「難解な文章」という道具を使って何ができるか。まず「分かる人/分からない人」を分断して「分かる人」の側に立つことができる。これは結構快感だと思う。「器官なき身体という概念が分かる人/分からない人」という二項対立において、上位に立てる。気持ちがいい。「難解な文章」という道具によって「気持ちよくなる」ことができる。
 あと思いつくのは「モテる」ことぐらいか。今時フーコーとかドゥルーズとか言ってもモテるとも思えないが、「難解な文章」に「格好よさ」を見る女性もいる。サピオセクシャルっていうのかな。

 基本的に「言葉」というのは「伝達」の手段なので、難解さというのは嫌われると思う。あえて難解な言葉使いをするということは、そこには何かしらの「戦略」、もしくは「下心」が存在する。アドルノやラカンあたりは戦略だと思うが、一般の人が「難解な文章」を書く下心って「自尊心」と「性欲」ぐらいしか思いつかない。あと、もしかしたらカリスマ性の獲得などの野心があるのかもしれない。もしくは学者の権威づけなど。

 このブログは主に「仏教を広めたい」「そのために様々な人に読んでもらいたい」という動機で運営しているので、分かりやすい文章を心掛けたい。こういう「毒を吐きたい」という動機の記事でも、分かりやすい文章のほうが共感を得られると思う

 

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