文学と救いとヒロイズム

 ヒロイズムという言葉を最初に見たのは、高1の時に読んだハンターハンターだった。ウェルフィンという雑魚キャラが、超強いラスボスに一矢報いようとするのだが、その時「俺の行動は英雄主義でしかなかった」と言う。このヒロイズムという言葉を見た瞬間、僕はこれは本質的な問題だなと直観した。
 二度目に見たのは、三島由紀夫の「鏡子の家」だった。ニヒリストのサラリーマンの人生訓に「ヒロイズムに陥らないこと」と書いてあった。当然だと思った。三島由紀夫は、鏡子の家という小説を「ニヒリズム研究」として書いたらしい。

 ヒロイズムというのは、厄介な病気だと思う。道元の正法眼蔵随聞記は、仏道に命を捧げるべし、という言葉で溢れている。例えば「若し道有りては死すとも、道のうして生くる事なかれ」「学道の人は最も貧なるべし」
 もし仏法者が「清貧」に生きたとしても、それが「ヒロイズム」からだとしたら、つまらないだろう。ナルシズム、と言ったら少し当たらない。やっぱりヒロイズムという言葉がしっくりくる。

 宗教的なヒロイズムの典型というのは「殉教」だろうが、文学に殉死したものなど数えきれない。文学というのは、己の自我や悪をさらけ出す誠実性の上に成り立っているのだから、自殺せざるを得ない。文学=自殺である。
 文学をやっていて、自殺を考えたことのない人は、嘘モノだと思う。そんな人がいくら書いてもいくら読んでも何にもならない。前にも書いたが、夏目漱石の「私は発狂するか宗教するか自殺するかしかない」という言葉は本質的だと思う。この3つに当てはまらない文学徒は、誤魔化しをしている。
 ニヒリズムを告げたニーチェが、超のつくほど英雄主義だったのは象徴的だ。英雄主義には欺瞞がある。英雄主義の欺瞞を書いたのが「罪と罰」だろう

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