実証主義 気功 眼に見えない物

 気功の本を買って試してみた。以下のような現象が起きた。
・肩こりが治った
・腰痛が改善した
・冷え性が治った
・ぐっすり眠れるようになった
・活力が湧いて、本を読んでも疲れなくなった
・疲れ目が治った
・テンションがあがった
・パキシルを断薬した 離脱症状はほぼなかった
・気功をした直後は頭の中の雑音が無音になる
・気功をしている最中は手のひらと足の裏が熱くなる
・両手で円を作ると気の球みたいなものを感じる

 簡潔に言うと、体調がよくなってエネルギッシュになった。

 プラシーボだけでこれだけの効果が出るとは思えない。不思議で、理解しがたい。
 自分が今持っている枠組み、西洋的な枠組みで解釈すると
 「気功のポーズを取ることにより身体がリラックスし、プラシーボ効果のおかげで体調がよくなり、本を読んだせいで脳が誤作動を起こして気のようなものを感じるようになった」ということになる。

 信じる、信じないとかではなく、自分の身に起きたことなので、どう解釈して良いのか分からない。

 エネルギーとか気とかなんと呼んでもいいけれど、確かにそういったものを仮定すれば、雑だけれど理解できる。気の量が増えたとか、気の巡りがよくなったとか。多分手のひらの熱さなどはサーモグラフィーで感知できると思うが、気は科学的な器具では感知できないと思う。だからどこまで行っても「仮説」に留まる。

 頭が混乱したので、大昔に読んだ五木寛之と気功家の対談本を再読してみた。西洋医学は解剖学が基準なので「死体から始まる医学」で、東洋医学は生きている身体を基準にしているという部分が印象に残った。物質に還元できない生命エネルギーというものが存在するんだろうか?

 僕は科学教育を受けたので唯物論的な思考をすることが多いが、唯物論は哲学的に擁護できないことも知っている。もしも全てが「物」ならば、「唯物論は正しい」というテーゼも神経の興奮にすぎないことになるが、神経の興奮に「正しい」とか「間違っている」とか存在しない。「意味」とか「心」とか「社会」とか「愛」とか「感情」とか、物じゃないものはたくさん存在する。科学は「物しか存在しない」ことを「公理」にしているので、原理的に気の解明はできない。というか「物」ってなんなのか分からない。

 科学は「見えるもの」しか取り扱わない。主に視覚的な感覚与件を分析していると思う。「見えないもの」が存在しているとして、どうやって実証すればいいんだろうか?自分で体験するしかない。

 「見えないもの」の話をしだしたら、キリがなくなる。空飛ぶスパゲッティモンスターが存在するかもしれないし、角が生えた兎が存在するかもしれない。どの可能性もある中で、なぜ「気」なのかと問われると、「そういう伝統があり、それに沿って実践すれば、仮定通りの結果が得られたから」と言うしかない。「気」という仮説で上手くいってきた歴史が何千年単位で存在している。その仮説は間違いかもしれないが、間違っていることも証明できない。

 中医学というのは、かなりシステマティックに体系化されているらしい。胡散臭くて遠ざけていたが、西洋の最新の身心論は「運動をすると鬱に良い」「運動をすると記憶力と集中力があがる」程度なので、ちょっと話にならない。
 身体と心ってどうなっているんだろうか?生命ってなんなんだろうか?気功の本を読んでいると、禅に近しいものを凄く感じた。気功とは「元気」になること、つまり元に戻ることを目的としているらしい。元とは生まれる前のこと、つまり不生だ。不生の仏心。父母未生以前の本来の面目。
 健康にもいいし、知的好奇心をくすぐられるし、中国仏教の理解や日本の民俗学などの理解に繋がりそうなので、中医学や気功の本を10冊ぐらいポチった。
 世界ってどうなってるんだろう?自分ってなんなんだろう。知らないことばっかりだ

勉強したいのでお願いします