無常と概念 生と死 ブッダとプラトン

 「執着すべきものがなくなれば、生きる指針がなくなり、何も行うことができないのではないか」というコメントを貰った。
 似たような話を読んだことがある。ロバを中心において、ちょうど3メートルずつ離して左右に餌を置く。ロバはどっちの餌を食べるのが良いかを決める基準を持っていないので、餓死して死ぬ。
 もちろん現実にはそうならずに、どちらかの餌を食べるだろう。思考実験ではそうなる。

 仏教の「慈悲(抜苦与楽)」を定式化すると、こうなると思う。「自己の利益を一切省みず、他者の苦痛が最小限になるように行動せよ」ただ、こういう定式化は往々にしてジレンマを引き起こす。
 功利主義では「1人の健康な人間の臓器を移植して、5人の病人を助けることは善か」というジレンマがある。1人が苦しんで5人が快を得るから功利主義的には善のはずだが、1人の健康な罪のない人を殺すのはダメだと言う倫理的直観もある。
 仏教の慈悲も、簡単な例を挙げると、目の前に溺れている人が2人いる時にどちらを助ければいいのか、分からない。

 真空状態の思考実験では、生と乖離した結果が導出される。「概念」を弄んでいるからだと思う。概念ってなんだろうか?

 パルメニデスは、「ある」という概念だけが存在し、生成する世界は存在せず、時間も運動も存在しないと説いた。ただこれは明らかにおかしい。運動が存在しないと本気で考える人はいないだろう。想像もできない。
 ヘラクレイトスは逆に生成しか存在しないと説いた。これは直観に従っていると思う。

 プラトンは「イデア」という「不動の概念」こそが「実在」だとし、無常の世界は「イデアの模倣」、つまり真実の世界ではないと説く。
 一方、ニーチェはイデア界や神の国といった「大地」を超越した世界などは哲学者の妄想であり、生成(無常)の世界しか存在しないと主張した。

 哲学史には「概念」と「生成」の対立がある。僕は概念というのは言葉に過ぎないと思う。
 「無常」というのは概念と対立するものではなく、概念より上位にある。無常というのは今生きている生であり、その生を概念が通過していく。

世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

スッタニパータ

 「今」というのは言語化できない。「ま」と言った時には「い」は過ぎている。無常というのは「生き生きとした現在」であり、ただそれを生きることしかできない。全ての瞬間は一回性のものであるから、概念にも論にもならない。
 人間は概念や思考の囚人になっている。無常というのは哲学、偏見、概念を壊すキーだ

 

 

 

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