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どん底作家の人生に幸あれ!

この作品、原題は「THE PERSONAL HISTORY OF DAVID COPPERFIELD」というらしい。てっきり世界的なマジシャン、デビッド・カッパーフィールドの自伝を映画化したのかな? と、鑑賞前から大きな勘違いをしてしまった。

イギリスの文豪、チャールズ・ディケンズの代表作「DAVID COPPERFIELD」の映画化で、マジシャンのほうが、この小説の主人公から芸名を拝借したそうな。それほど、欧米では有名な古典。知ったかぶりする前に映画で勉強できてよかった。ちなみに物語の悪役として中盤に登場する「ユライア・ヒープ」。この名前も、70年代初頭から活躍するブリティッシュ・ハードロック・バンドに使われている(日本でのバンド表記はユーライア・ヒープ)。ディケンズの作品は、英語圏では一般教養レベルなのだと、あらためて実感。

で、肝心の映画の中身はというと…
主人公のデイヴィッド・コパフィールドが、自分を取り巻く特異なキャラクターたちからの影響を存分に受け、作家として成功を掴むまでの成長譚。チャールズ・ディケンズの自叙伝的な要素も多分に含まれているらしい。

まさに“人生山あり谷あり”…とはいうものの、タイトルの“どん底”というほど底でもなかったりするから、最終的に成功したときのカタルシスに欠ける。目の肥えた観客は、底辺から大逆転にいたる人生の折れ線グラフに、もっともっと振れ幅がほしかったはず。主役のデヴ・パテルが「スラムドッグ$ミリオネア」で出世したこともあり、どうしても観比べてしまう。振れ幅が大きくて心に突き刺ささったのは、やはり「スラムドッグ$ミリオネア」のほう。現代のインドのスラム街のほうが、19世紀の英国よりも貧困度合いでは勝っていたということか?

例えば、演出に関して物申すなら、ユライアに騙し取られたものを奪い返す場面。ユライアを演じたベン・ウィショーが、どこか憎めないコミカルな役どころだったこともあり、「そこまで責めてやらなくても…」と作り手の意図とは反対に同情してしまった。ユライアを糾弾するなら、デイヴィッドの幼少期に虐待を繰り返した、継父とその姉はどうなるんだよと悶々としてしまう。二人に対してこれといった制裁はなく、なんとも肩透かし。立ち直れないほどの鉄槌を下されてもおかしくない所業なのに、あぁ無念。といった具合で、消化不良のままエンディングを迎えてしまった。

古今東西、運と才能、持てる叡智を駆使して成り上がる立身出世ものといえば、五万とあるが、個人的に大好きなのは、花登筐(はなとこばこ)原作・脚本の「あかんたれ」。昭和51年にテレビで放送されていた昼ドラで、明治中期の大阪・船場の呉服問屋を舞台にした所謂“根性もの”。とくに関西方面では、忘れたころにいいタイミングで再放送されるキラー・コンテンツだ。

呉服問屋・成田屋の主人の妾の子として生まれた男が、主人(父親)の死をきっかけに丁稚として奉公に入る。本妻の子をはじめとする周囲からの壮絶ないじめや、理不尽な扱いに耐えながらも、生来の負けん気と才覚を武器に、母親との約束を果たすために精進していく。やがて、本妻の子が放蕩の限りを尽くして傾いた成田屋を立て直したことで、誰からも認められる存在になるといったストーリー。

主演を務めたのは志垣太郎。重苦しい雰囲気の演技に陥りがちだったが、脇を固めた主要キャストが、花登筐自身が主宰した「劇団 喜劇」の面々で、うまい具合に化学反応を起こす。暗くなりがちなテーマを面白おかしく味付けしてくれ、放映当時は子どもだった自分でも十分に楽しめた。大阪の話は、泣かせて笑わせてなんぼ。

“人生山あり谷あり”くくりで、無理やり「あかんたれ」にまで話が及んでしまったが、要は「どん底作家の人生に幸あれ!」には、もっと泣かせて笑わせてほしかったということ。生粋の大阪人からしたら、どのキャラクターにも「劇団 喜劇」のような、濃いめのスパイスが足りてないんだよ!

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