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君とここで出会ったのは運命だと思うんだ

7:22って数字を、メニューバーの時間表示や卓上の時計、あるいは、カウントダウンのタイマーだったりで目にすると、おっ、また7:22だ、なんて思う。ふと気づくと7:22ってことが多いよなあ、不思議だなあ、なんてね。
けれども、これ、実際には0:00から23:59まで平等に表示される中でこの数字の時だけ意識に引っかかっているってだけでしょうね。なんせ、私、7月22日が誕生日なもので。
こういうような形で偶然を必然のように、特別な意味があるもののように、運命なんじゃないかしらというように思いたくなる気持ちは起こりやすいですな。

ビートルズの最後のシングルだぜって話題でちょんもり盛り上がっていますね。私の音楽のルーツには彼らがどしんと座っていることはまちがいないわけで、聴いてみました。感じたことはね、もうジョンはいないんだよな、ということです。今さらそこかよってなもんですが、四人セットの新曲なんて言われて聴いたら、ジョンもジョージもこの世にいないんだよなあ、ということを再認識せざるを得ず。
それにしても、すごい組み合わせがあったもんだよね。ジョンとポールの出会いがなかったら、ビートルズはなかったわけだもんな。そうすると、現在の世界の音楽地図は相当ちがったものになっていただろうね。まさに運命的な出会いだよ、なんてことを思ったりすることは可能だし、そう思いたくなる気持ちも私の中にちょびっとある。
卑近な例で言えば、先日のMisaco + Otherzのポッドキャストで話したMisacoとの出会いのエピソードだって、十分に運命的だよなあと思いうるできごとだと言えましょう。そのリンクを繋いだふたりが私よりも歳下なのに既に草葉の陰にある、なんてことも含めて、そう思いたくなる気持ちはある。んでさ、そのふたりとの出会いの背後には望月くん(誰?)がいたり、あさがやんずがあったり……そもそもあさがやんずの行く末はドラムの大先生との出会いで決まったんだよな……んでもって、それは古地とバンドをやっていたからってことだけれど、あいつとは小中学校の同級生だし……つまり両親があの団地に住むことを選んだから、の地元民の出会いなわけで……なんてなことを辿っていくときりがない。ふむ。きりがない。とどのつまりがうちの両親が出会って私がここにいる、的なところになる。いや、待てよ、それだって、うちの親父の両親、おふくろの両親の出会いってことがあったからで……と考えることはできる。親が二人。祖父母は四人。曽祖父母はその倍の八人。高祖父母となると十六人。名称はわからんけれども、その上の世代になれば三十二人の出会いがあったわけで……それが今日の私を作っているのだからして……って、風呂敷を広げすぎですが、運命論をつきつめていくとこうなるんじゃないでしょうか。さらにどんどん遡れば、六十四人、百二十八人、二百五十六人……ってな具合に私のルーツはふくらんでいくわけで、実のところ、人類みなきょうだいって考え方もあながちまちがってもいないような気がしますな……って、あれ? 私は何の話をしていたんだろうか。

あらゆることに対してこれは運命だと言うことも可能だよなあ、と。その一方で、そこに自由意志ってものがあるわけでね。運命でそうなったんじゃなくて、自分で選び取ったことなんだよ、とも言える。
君がこの文章を読んでいるのだって、運命的な出会いだよね。いやいや、あれこれ自分でクリックして開いたページだもん、自分の意思で辿りついたんだよ。
ふむ。どっちもどっちだな。好きな方を選びたまえ。

運命だよ、みたいな歌詞には食傷しているけれども、かわいこちゃんに出会ったら、君とここで出会ったのは運命だと思うんだ、なんて口説くのはありだと思うよ。もっとも、私がそんなことを言い出したら、あらあら、おじいちゃん、大丈夫? おうちはわかるかしら? なんて徘徊老人にまちがわれかねないか。まちがえる? いやいや、君は徘徊老人そのものだよ。まあ、そうかもしれんね。

さて、今日は何の話を書こうと思ったんだったかな。

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