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麦くんと恋愛できたら良かった 〜『花束みたいな恋をした』の感想〜

ネタバレはなるべくしないように気をつけるけど、難しいと思います、ごめんなさい。


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映画の感想の前に、わたしの話を少しだけ。

東京に出て、11年ほどが経った。
思えば、京王線とは距離を取って生活してきた。

最初に勤めた職場は初台。京王新線初台駅から徒歩10分。当時のわたしは大学生だった妹と東急東横線綱島駅近くのアパートに住んでいた。東横線で渋谷に出て、山手線で代々木へ行って、都営大江戸線で西新宿5丁目駅へ行ってから、12分ほど歩いて出勤していた。その方が便利だった。

同期のほとんどは京王線沿いに住んでいて、みんな揃って笹塚駅で下車して京王新線から京王線に乗り換え、それぞれが千歳烏山とか桜上水とか調布とか、そういう場所に帰宅していった。ちなみに映画に登場する明大前は、皆が乗り換える笹塚駅から2つ目の駅だ。

わたしが終電を逃した時に過ごすのは大抵が渋谷で、そういう時は遅くまで開いている立ち飲み屋で過ごし、足が疲れたら漫画喫茶へ移動し、漫画を読んだりインターネットで動画を見たりはせずに始発まで寝て過ごした。大学生の頃は朝まで居酒屋やカラオケにいることがほとんどだったけど、社会人になると一緒にそういう風に過ごす存在は少なかった。ただでさえ友達が少ないのに、大学も就職も遠方ばかりを選んでいたせいか、いつの間にかひとりで過ごすことになんの抵抗も持たなくなっていたのだ。

そうして、いつの間にか夫と出会い、交際し、同棲し、結婚して子どもを産んだ。

夫と出会うまでに、彼氏は居たり居なかったりしたけど、その中に“麦くん”みたいな男の子はひとりも居なかったように思う。

映画の冒頭、絹ちゃんが『余裕があって魅力的に見える男は大抵こちらを見下してるだけ』と語るシーンがある。それを観て、「ああ、わたしはそちら側の男性とばかり付き合ってきたんだな」と妙に納得してしまった。

絹ちゃんと麦くんが互いの文庫本を交換して、同じ作家の本を愛読していることを知り意気投合する場面がある。読書に限らず、音楽やらお笑いやら、二人はとにかく趣味が合い、似たような考え方をしている。そういう異性と偶然に出会い、必然のように恋に落ちる。この映画はその恋が始まって終わるまでの物語なのだ。

わたしの話をする。わたしは江國香織の本が好きだ。中学生のとき『こうばしい日々』を読み、『流しの下の骨』を読み、急坂を転げ落ちるように彼女の世界観に嵌っていった。大学生くらいまでは他の作家の作品もせっせと読んでいたけれど、あるときふいに「もう江國香織の本があるから、彼女の作品以外は読まなくていいか」と思い立ち、それから5年ほど江國香織しか読まなくなった。
東横線に揺られながら、『東京タワー』や『落下する夕方』や『ホリーガーデン』を読むのはとても心地よかった。江國香織が東京で生まれ育ったためか、作品のほとんどは東京が舞台だった。そんな本を中学生からせっせと読んでいたのだから、わたしが東京で暮らし続けるのは至極当然のことなのだろう。

で、そんな風に江國香織ばかり読んでいたわたしだが、大学生の頃は当時、付き合っていた彼氏に薦められて森博嗣を読んだ。『銀魂』はド嵌りして、気づいたらアニメも観るようになっていた。夫と出会ってからは、彼に薦められて『長い腕』や『黒い家』を読んだ。面白いから、と『進撃の巨人』も読んで見事に嵌った。今回の映画の脚本を担当する坂元裕二は夫が大作家だと称えるうちのひとりで、彼のドラマを薦められるがままに観賞してほとんど嵌り、『最高の離婚』や『カルテット』を名作だと称え、いつの間にかドラマは脚本家で選ぶ人間になっていた。

でも、わたしが付き合ってきた男性の中で、江國香織を読んでいる人はほとんどいなかった。

別に読んで欲しいとは思わない。大学生の頃、森博嗣を薦めてくれた彼氏に試しに江國香織の『号泣する準備はできていた』を渡してみたが、「何が面白いのかわからない」と1日で返却された。わたしの人生の教科書は、別の誰かにとっては“安っぽい花柄の便座カバー”みたいなものなのだ。

それに気づいてしまってから、あまり期待しなくなった。恋愛関係にある人が薦めてくれたものを褒めて共感すると、相手は無造作に喜んでくれる。ただ、わたしの場合、その多くは一方通行で、わたしが好きなものを相手が好きになるなんて期待するだけ無駄なのだ。

『花束みたいな恋をした』に出てくる恋愛は、ありふれた男女の恋物語で、それ故に終わり方が切ないと批評されるが、わたしはこれを“ありふれている”とは思えない。

付き合うから別れるまで、こんなにもぴったりと二人の気持ちが寄り添い、好きになり、盛り上がり、慣れ始め、冷めていき、別れるなんて、これはたぶん奇跡なのだ。同じ場所で、同じ景色を見ながら、同じ気持ちになれることなんて、長い人生の中で滅多にない。滅多にないから“花束みたい”なんじゃないかと思う。

そういうありふれているようで起こりえない奇跡が育まれる様を、丁寧に描写して、観る人に無遠慮に刻み込んでいく。そうしてこんな風に、自分語りをしたくなってしまう。

そんな風に育んだ恋愛がふいに終わりを告げたとしても、その気持ちはずっと自分の中に“眩しいもの”として残っていく。何かにつまずいたときや落ち込んだ瞬間に、例えば“エスカレーターの下りに乗るとき”なんかに、そっと自分の背中を押してくれる。わたしの拙い恋愛経験の中にも、否、恋愛に限らず友人や恩師、はたまた大学時代のバイト先の先輩との関係の中にだって、思い返すと“眩しいもの”が落ちているように思う。
麦くんみたいな人と恋愛ができたら、なんて思ってしまったけど、別に恋愛するだけが人生じゃない。本当はああいう人と付き合ったりしない方が幸せそうだな、というのが本音である。

でも、人生に一度あるかないかの掛け替えのない出会いを、数々の優しさを織り交ぜながら、平凡な男女の数年間に落とし込める坂元裕二の世界観には、本当に感服してしまう。絹ちゃんと麦くんが育んだ“眩しいもの”が、最後にGoogleのストリートビューに刻まれる、というオチには鳥肌が立った。

実は、この映画を観て別れるカップルが続出するなんて噂を聞いた。老婆心ながら、どうか思いとどまって欲しい。“恋愛はなまもの”だから、映画を観て感化されるなんて勿体無い。あなたが今、終わらせようとしてる恋愛が、本当に腐っているのかどうか、どうかもう一度考えてほしい。

絹ちゃんと麦くんが別れ、気持ちいくらい清々しい表情をして別々の人生を歩んでいるのは、たぶんきっちりと“なまもの”である恋愛を味わい尽くした結果である。そうして過ごした時間の中にある“眩しいもの”に背中を押されて生きていくから、人生は素晴らしいのだ。改めて、ひとつひとつの出会いを大切にしたいと思える映画であった。




読んでいただきありがとうございます。まだまだ修行中ですが、感想など教えていただけると嬉しいです。