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境界をきっぱりさせていない

連休 部屋に立てこもり 心からエアコンを買い
かえてよかった 28度 という訳にはさすがに
行かず 27度設定で始終つけっぱなし 快適
室温が25度で保たれている おそらく25度く
らいが生活に快適な室温なのだろう とくに根拠
があるわけではなく 一二度の上下を試した
訳でもなく 大抵のことは大まか いい加減で
流している 梅雨らしい梅雨が感じられなくとも
暑さは増して 季節も期待に沿って流れるわけ
でもなく

心が戦前のあたりに置かれている 大正から
昭和期の作家を読んでいる 読みながら別の
創作の方法論的な評論を併読している 作者
と小説の中の登場人物と小説の話者の関係
について考える 評論集では詩についての論考
だけれど 小説に置き換えてもとくに齟齬を感じ
ない そこでは 私 というものをありのままに
リアルに述べる ということに意義を差しはさむ
論が展開されているが 確かにそのあたりを
意識的に読んでいくことは押さえた方がいいの
かもしれないが人生の愉しみ または慰撫とし
ての読書という点ではあまり意識されるもので
もない 鵜呑みにする ありのままに受け取る
そこにある包容力は歳を取るにつれて心地よく
感じられる気がする それではだめだ という
ことで評論の併読でバランスする 話が巡って
いる

思えば若い頃から 私小説は嫌いではなかった
1980年代はニューアカデミズムと言われるブ
ームがあって その流れなのかどうか 直接
ニューアカの何たるかを知らないのでよくわか
らないのだけれど私小説が時代遅れの老人の
たわ言のように脇に置かれた時代だった それ
はそれまでの私小説偏重の文芸界から長老
たちが身罷っていき力を失ってきたことも私小説
衰退の大きな要因の一つだったのだろう 何
しろ何だか騒がしくて色々なことが攪拌され
少しも落ち着いてなかったのが私の80年代
に対しての印象で 後から考えればその当時
書かれた小説 詩 または音楽 それら その
時代の空気が同じように漂っている気がする
そこを具体的に考えることを少し本腰にやろうか
と数年前から考えていて いまだに手をつけら
れていない 特に1980年 個人的に重要な
年だったと思いつつ

仕掛けに満ちた 鼻を明かしてやろう みたい
な野心に満ち溢れていた時代だったかと思う
それらのぎらぎらした風潮にあって たとえば
小沼丹の私小説など実に暢気で個性だけで 
書いているように読めるのだったがよく考えれ
ばそれはとてつもない事なのではないかなど
と今から思えばそんな風に感じる 当時 私小説
はたしか時代遅れに思われていて 大正期の作家
などは古本屋の店先にある均一棚で駄菓子の
ような値段で売られていた 安倍公房と私小説
を並行して読んだりしていた そういえば本を
よく読むようになったのは大学二年ごろからだ
った 高校時代に読んだ本ではっきりと覚えて
いるのは国木田独歩の武蔵野だけだ それも
読んだという記憶だけ 内容は覚えていない

私小説はその存在のありようが現代詩に似て
いる 気がする 断言してから言い切りを和らげ
てみた 現代詩なのかな とやや疑問も残る
私小説は随筆との境界をきっぱりさせていない
所がいい 時に詩に侵犯している気もする そ
して一番はこれが一体文学なのか と疑問を
引き起こすところが好きだ

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