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老人まで一年と

目下の最大の悩みは水槽の白濁りがどう工夫
しても取れないことで 今月に入って水槽をリ
セットするのは今日で三回目だ 今日 誕生日
だ 還暦というのは数えでするのかと思ってし
らべたら満年齢でいいらしく もし 数えでやる
なら61歳なのだそうだ 母の卒寿を祝おうとし
てまだ祝っていない こちらは満年齢ではなく
数えでするそうで いずれにしろもう一年遅れ
になっている 寿司でも と思っているが回ら
無い寿司でも回るのでもない 持ち帰りのやつ
を考えている 私は握りずしが駄目なのでかっ
ぱとかかんぴょう巻きを付き合う 母がよくうす
焼き卵を海苔にみたてて卵巻きをつくってくれ
たが姉と我先に取り合いになった それから餃子
あんが余ると卵に混ぜて炒り卵にしていた そ
れもなかなかおいしかった

れっきとした老人まで一年となった アーリー
リタイアを名乗れるのもあと一年だ 60で仕事
を辞める人も少数派になりつつあるようで 先般
週刊誌の特集で60歳で仕事を辞める という
見出しが目につき 電子雑誌で覗いたところ
60歳までに3000万円どうにかして それを年利
6%で運用しつつ取り崩しながら暮らすと書いて
あったので笑ってしまった 年利6%というのは
多分 アメリカのS&P500という株指数の今まで
の平均から見込まれる数値なのかと思われる
がそれはあくまで平均で 年利-20%が三年
連続 などと言うこともあり得る 経験上 そこ
まで大げさではなく 5年程度マイナスなどと言う
ことは実際頻発するところでもあるから減り続け
る資産にその間耐え続けなければならない
となると 補填のために働かなければならない
などと焦って せっかくの退職後の人生を心身
ともに苦悩に満ちて過ごすことになりかねない
退職金取り崩し生活ほど精神にきついことは
そうそうない まあ 過ごすうちに慣れるけれども

こういった生活を子細に書けば私小説というこ
とになるのだろうか 何だか 以前にもこのフレ
ーズ使ったような気が今した 私小説が文学
たりえる要件はなんだろう 例えば 葛西善蔵
は自分の無頼な生活を描いて私小説とした
車谷長吉は自分の身うちや身辺を露悪的に
書くことをもって私小説とした 今 佐伯一麦を
読んでいるが 文章は三島みたいな絢爛なも
のでもなく ドラマチックな事件も起きない 季節
のめぐりや自らの体験 回想 日常 それらが
記載されていて終わりも特にバッドでもハッピー
でもないエンドで終わる エンドで終わるとは
ホースな馬みたい いや 少しニュアンス違うか
とにかく何故それが文学たりえるのか ならば
構成や仕掛けに凝った緻密な構築物のような
小説はより文学なのか 気軽なエッセイが文学
である理由は著者が文学者だからなのか そも
そも 文章は文学だから価値を持つのか そも
そも価値とは一体なんだか

これ以上話を広げても月並みな価値論や文学
のステレオタイプな認識の再確認みたいなこと
しか思い浮かばないところが悲しいかな 日常の
雑事の記録と私小説 私的随筆との間にある
違いとは何だろう 文章が上手ければ文学だ
ろうか 文章が支離滅裂でも書かれていることが
感動的なら文学だろうか 文学にこだわるという
態度が文学だろうか 詩は自分が詩と思えば
詩なのではないかと考えているがその場合詩が
文学を思わせるにはどのように書かれている
べきのなのだろうか そんなこと数え還暦で
まだ青臭く悩んでいる 大人を6年前にやめた
あと十歳から二十代前半にしていたことばかり
している 大人になる前に身体と健忘だけ老人
になっていく

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