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「バブルフラワー」2

 アルバイトの初日、僕は一時間遅刻した。
 「そんな早くからやるほどのこと?」
 と、内心思っていたことが敗因だろうと思われる。
 ジェーン叔母さんが紹介してくれたのは国内大手のコンピューター会社のサポートセンターでの電話対応だった。僕は生まれて初めてぺっかぺかのオフィスにスタッフ章を付けて入り、ご満悦だった。
 研修の時点で「ふざけてんのかな?」とは感じていた。実際に業務に就いたら、「どうかしている」と思った。とはいえ、僕は初体験フェチなので、どんなことでもたいてい最初は楽しむことが出来るのだ。新鮮味、というのに弱い。ただ、それが薄れてくるとやっかいだけれども。
 まずなにより酷かったのは、仕事を教えてくれるスタッフが陰険だった。でも、仕方ないとも思った。下は上に監視される、というのがその会社の方針だったから。フロアで最も上の地位にいる者も、その上の階にいる上司の監視と査定に合格することのみを目標に仕事をしていた。
 監視というのは、人間からやる気や個性や創造性を奪うのにはもってこいだということがよーく分かった。
 学校教諭の中にも、支配下にある者をイビり倒すことがライフワークみたいな人がいた。陰湿に目を付けた一人の子を攻め続ける。相手が八歳だろうがお構いなしだ。
 「わたしのやり方に従えないと酷い目に遭うわよ」
 というのが彼らの言い分だということには気づいていたけれど、彼らもまた打ちのめされた人たちなのだということは知らなかった。教員もきっと監視下に置かれているに違いない。支配されることは酷く憂鬱だし、色んなことが最悪のタイミングで噛み合うと、精神が奇っ怪な形に歪んでしまうんだろう。
 僕はどんどん退屈になってきて、二ヶ月後にバイトを辞めたいと申し出た。ジェーン叔母さんは、顔にたばこの煙を吹きかけられ続けているような表情で僕を見つめながら、僕の性格の欠点、それによって起こるであろう恐ろしい人生の失敗、そして根性を叩き直すためのいくつかのアドバイスをしてくれた。僕は神妙な顔でそれらを聞き流し、バイトからオサラバすることに成功した。
 仕事をすぐに辞めるのは悪い兆候だ、という信念を大方の立派な大人たち同様、祖父母も持っていることは明らかだったけれど、例のごとくロビン伯母さんが庇ってくれて気まずーい空気から救い出してくれた。
 「若いんだから、色々やってみる方がいいわよ」
 とかなんとか言って。
 ロビン伯母さんは、バンド活動を止めたときも、
 「なんで?ライブに行くの楽しみにしていたのに!」
 と言ってくれた唯一の人だった。父方の親戚の中では祖父母の次に幼少期の僕の面倒を見てくれた人物であると同時に、最も馬が合う相手でもあった。どちらかというと親戚の中では、はみ出し者同士だからかもしれない。
 ロビン伯母さんは、薬剤師として大きな病院に勤めていて独り身だ。祖母は娘の一人が独身であることを、誇り高い職業に就いている、ということを理由に自分を納得させようとしている節がある。ロビン伯母さんが主任に就いたときには、近所の人にそれを吹聴して回っていた。母親特有の繊細かつ倒錯的な割り切れない思いが、
 「あら、さすがお利口なロビンちゃん!」
 という近所のお喋りばあさんたちの胡散臭い賞賛で解消されたなら、喜ばしいことだ。
 ロビン伯母さんはよく、
 「勉強ばかりしてんじゃないでしょうね?」
 と、攻めるような口調で言ってくれた。
 「つまんない男になったらがっかりだわ!」
 そう言って、時々学校をサボるようにそそのかし、実際に一緒に仕事と学校をずる休みしたこともある。
 親戚の中で、サボり癖があるのは僕ら二人だけだろうと、僕は断言できる。自分に厳しく、他人にも厳しく。これもまた、父方の一族のモットーの一つだ。世知辛い社会を生き抜くためには、タフさが必要だと言うことらしい。そのタフさとやらを僕流に解釈すれば、自分の信念だけが正しいと信じ抜き、その信念を墓場まで持って行く執念深さという気がしなくもない。
 自分にも甘く、他人にも甘く。少しでも「ねばならない」を捨てて楽になりたい。こんな風に思っている僕は、この厳しい社会を生き抜くには少しひ弱すぎるのだろう。
 僕はそれからいくつかのアルバイトを三日~二ヶ月でやめた後、ようやく一年後に行きつけのサンドイッチ・レストランのスタッフとして落ち着くことができた。
 ところが、せっかく僕が三ヶ月以上アルバイトを続けているというのに、祖父母の機嫌が芳しくない。ロビン伯母さんが苦笑しながら教えてくれた。
 「ご自慢のラルフが、エプロンを付けてサンドイッチを作っているのがご不満なんでしょ」
 なるほど。
 「時給も激安らしいじゃない。それも気に入らないのね」
 確かに、コンピューターの専門知識が必要なバイトだとか、家庭教師だとかに比べるとずっと安い。でもなぜだか、サンドイッチ・レストランのために四時起きすることは「くだらない」とは思わないのだ。レアの焼くスペルト小麦を使ったパンでつくるサンドイッチのファンだからかもしれないね。
 祖父母から頼まれたのか、ジェーン伯母さんは再び僕にアルバイトの誘いをかけてきた。
 「前とはちょっと違うの」
 と言っていたが、話を三秒聞いただけで、電話での対応がPCメールに変わっただけだと分かったのできっぱりと断った。
 あのアルバイトをしている間、僕は本気でこの国を心配したんだから。電話をかけてくるのは、新型のPCやスマフォの使い方が分からず困っている人よりも、誰かに怒りをぶつけることが目的の人たちの方が多かった。どんなに説明しようとしても、製品や説明書の不備を釈明しようとしても、端っから許す気も理解する気も無い人がほとんどだ。
 誰かを上から怒鳴りつけたい、罵倒したい、そんな気持ちがありありと伝わってきたから、逆に肩の力が抜けたくらいだった。こちらの能力次第、なんて話じゃないんだものね。
 あのバイト以来、物事を邪推する人たちが気になるようになった。意識的になってみると、この国は誰かに向かって文句を投げつけたい人たちで溢れていると気づいた。ネットはもちろんのこと、雑誌や新聞の投稿を見てもそうだったし、コーヒーショップで漏れ聞こえてくる会話は、ほぼ百パーセント不平不満だ。
 ある日のスーパーには、
 「お気に入りのスナックがいつもの場所に無いからどこにあるか訊ねたら、この女、バカにしたみたいに笑ったのよ!店員が客を笑うってどういうこと!?」
 と、怒っている女性がいた。
 ある日のレストランには、
 「店員のAさんはとても感じがいいから、わたしはAさんがいる時だけ、利用するようにしているんだ。どの店員もAさんレベルにできないかね?特にBさんやCさんは酷い」
 と、店長らしき男を捕まえて延々と店員批評を止めない男がいた。眺めていてやるせないのは、文句を言っている人たちがみんな、「もう耐えられない!」みたいな顔をしていることだ。
 この国の何割かは絶えず噴火寸前の火山みたいに崖っぷちギリギリな臨界態勢で日々を送っていて、そんな自分の不快感の責任を誰かに取らせたくてウズウズしているのだろうか?ほぼ恒常的に彼らの思考回路は、『わたしは他者から不当な扱いをうけている』というテンプレートを採用しているのかもしれない。そう思ってしまうくらい、色んなところでブーブー言っている人たちを見かける。
 それにしても、ジェーン伯母さんには感謝しかない。だって、会社という場所がこれほど異常だとは知らなかったから。雇い主っていうのは、ドンドン創造性を発揮してバリバリ会社を良くして欲しいと願うものだと思っていた。でも、管理につぐ管理。監査に次ぐ監査。あれじゃあどう考えても、自由に才能を発揮して革新的なアイディアをバンバンだしてくれたまえ、という感じではない。
 三つ四つの会社覗いて社会全体を知った気になるのは間違っているけれど、細部には全体が宿るともいうしねえ。僕がチラ見した会社では、社員の能力の中の才能なんて呼べる部分じゃなく、むしろゴミっかすの部分を掻き出して会社を運営したいみたいに感じた。
 これはウスノロな僕の予想に過ぎないけれど、あまり部下に才能を発揮され過ぎて会社が飛躍しすぎるのも困ると思っているんじゃないだろうか。もしかして、雇い主である自分たちの特権が脅かされる可能性が出てくるのが怖いんじゃない?上の人たちからすれば、都合よく自分たちを崇めてくれる程度の社員じゃないと不安なのかもしれない。
 もし経営者がそう考えているなら、部下があんまり才気走りすぎないように、管理管理管理で縛っておくのは正しいやり方だ。とにかく、会社のほとんどがあんな具合なら、そりゃあギリギリの精神状態の人が増えても不思議じゃない気もするよ。
 ゴミっかすの部分が求められると言えば、学校だって独創的な方向でぐいぐい教科の知識を広げようとしても、疎まれることこそあれ、誉められたりはしないものね。
 「ああ、試験には関係ないからそんなことしても無駄よ」
 って。
 「そんなバカやってないで、もっと得することに時間を使いなさい」
 みたいな。
 「コイツめんどくせーガキだな」
 的な?
 お陰で数学の素晴らしさなんて誰も分からずに人生を終える。それこそ勿体ない気がするのに。
 僕がバイトしているサンドイッチ・レストランの店長兼パン職人兼サンドイッチ名人のレア・ロイドはこう言うんだよ。みんなにとって居心地の良い店にしたいわって。思うんだけど、僕がバイトした会社はどれも、みんなにとって居心地の良い会社にしたいんだ、とは願っていなかったよね。客にとってであれ、働いている人にとっとであれ、ね。
 会社自体にしろ、製品やシステムにしろ、それらを本気で良くしようなんて思っていないように見えた。半永久的にお金を儲けられることを目標としているっぽかったね。一等地にあんなに爽やかなオフィスを構えている割には、やっていることは陰気だ。裏通りにあるボロアパートの一階にあっても、レアのサンドイッチ・レストランの方がずっと粋だよ。

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