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独仏に挟まれている小国の行き道

ルクセンブルク、欧州6番目小さな国です。下の五つの国と比べたらすでに小国とは言えませんが、仇同士のフランスとドイツの間に生まれた時点、茨の道に決まっていました。

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国土面積はわずか2586平方キロしかいないですが、小国とは言えないもう一つの理由は、ルクセンブルクは数多くの国際機構の発起メンバーからです。

まず、EU(欧州連合)の前身である「欧州石炭鉄鋼共同体」の最初6名の創業メンバーの一人。そしてNATO(北大西洋条約機構)の最初12名創業メンバーの一人でもあります。

つまり、国際社会において、ルクセンブルクは非常に活躍しています。何故かというと、これはルクセンブルクの歴史に関係しています。

ルクセンブルクの右にはドイツ、左はフランス、上にはベルギーとオランダ(国境接していない)があります。典型的な十字路国、守られる要所がありません。

神聖ローマ帝国の西側にはアルデンヌ森があり、領主である伯爵は教会とルクセンブルクという名の城を交換し、城を中心に村町が発展され、やがて大きな要塞となりました。以降、伯爵の子供はルクセンブルクを苗字とし、ルクセンブルク伯国を作りました。14世紀から15世紀はルクセンブルクの勢いがピークとなり、100年の間家族の中に3名神聖ローマ帝国皇帝が誕生し、神聖ローマ帝国のルクセンブルク王朝時代となりました。最強時チェコとハンガリーも勢力範囲でした。

王朝最後の皇帝は息子がいないため、帝位は婿であるハプスブルク家に継承され、ハプスブルク家は元々オーストリアの財力を持っていてさらにルクセンブルクの力を加え、やがて欧州最強の家族となりました。

しかし、当時の欧州にはフランス東部、オランダ、ベルギーを中心としたブルゴーニュ公国が急速に成長し、ルクセンブルクも吸収されました。それから、ルクセンブルクは色んな国に奪われ、今日はブルゴーニュ、明日はスペインの領土となり、明後日はフランス、主権は全くありませんでした。

ナポレオン失敗した後、ルクセンブルクが自由となったが、一部の国土はプロイセンに渡し、オランダとネーデルラント連合王国となり、同時にプロイセンの駐軍が可能となりました。

それからルクセンブルクはプロイセン(後のドイツ)とフランス対峙の最前線となってしまいました。

19世紀中期、オランダ財政危機となり、フランスはこの機会でルクセンブルクを買うつもりでしたが、もちろんプロイセンが許すわけがありません。戦争を回避するため、列強は仲介に入り1867年ロンドン条約が交わされ、フランスはルクセンブルクを諦め、同時にプロイセンの駐軍も撤退すると、ルクセンブルクは永久中立国となりました。

しかし、第一次世界大戦が勃発し、ルクセンブルクは中立と宣言していたが、地理位置の重要性と国力の弱さで完全に無視されました。ドイツは迷いなくルクセンブルクを侵攻し、さらにフランス侵攻の橋頭堡にしようとしていました。後の第二次世界大戦も同じく中立宣言の声が終わる前にドイツに電撃されました。

戦後、2度の亡国を経験したルクセンブルクはやっと理解しました、中立というのは口頭で叫ぶだけでできるものではない、スイス、リヒテンシュタインができたのはそれぞれ条件があったからです。

戦争の絶えないフランスとドイツの間にいる以上、中立というのは夢話でしかありません。戦後、国際舞台特にフランスとドイツの仲介人として非常に活躍していました。一番二つの国の平和を願っているかもしれません、だってこの二人が戦争すれば最初に痛い目に遭うのは自分に決まっています。

そのため、EUもNATOもルクセンブルクは創業メンバーです。こんな積極的な外交のもと、経済発展も非常に開放されていて、十字路国の特徴を生かして国際金融中心となり、さらに他の小国と比べ、ルクセンブルクはまだ鉱業資源があるため、工業レベルが高い。自然に欧州裕福な小さな国の代表となり、一人当たりGDPは長年世界一です。

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