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私のおかあさんは

私のおかあさんは、私を悲しませるために私を生んだのかもしれない。

そう思ってしまう私は、悪い子供なんだと、悪い人間なんだと、ずっと引け目に感じている。


もちろんそんなつもり無かっただろう。当たり前だ。いつしか生まれる子供の思うことひとつひとつを想定できる人間がこの世にいるだろうか。

だからこれは仕方ないのだ、と、何度も受け入れようとした。けれど、この理不尽を飲み込み受け入れられるほど、私は母親に受け入れられてはいなかったし、私も母親のことを受け入れられてはいない。


母親は、よくいえば節約家、悪くいえばけち、貧乏性。その過度な「切り詰め」は私も対象範囲内で、そのぶん愛情があったんじゃないか、といえば、そういうわけでもない(まったくないというわけではないが)。

なにせ母親は自分を可愛がるために、娘の私のことまで「切り詰め」ていたのを私は知っていたので、私は母親のことを、母親のまったくないというわけではない愛情と同等にしか愛せなくなった。


母親は母親で、私と同様引け目だったり罪悪感はあるようで、いや、なかったら困るのだが、

罪悪感=愛情

という奇妙な方程式が私たち母娘の間には存在していた。


母親の浮気、離婚、再婚、倹約、愛情不足、エトセトラ。
私はあくまでこの母親の娘で、子供で、過去含めたら相当のお金をかけてもらっている。エトセトラ。

これがイコールになってしまう、母娘という理不尽。


私はひどく情愛の薄い、擦れた人間になってしまった。と思う。思春期、それを自覚した時がいちばん悲しかった。


あの母親に振り回されるな、と、父親違いの兄弟たちは言う。その言葉すら、受け入れた振りをして、心の中で私は突っぱねてしまう。

あなたたちは孤独ではなかったじゃないか、と。


私は自分の傷を自分で治してやることもできず、いつまでも膿を垂れ流してしまう。


親子間の不和ほど子供を切りつけ、傷つけ、人間性を蝕むものはないのではないかと思う。



私の直近の目標は、自分の足で立って、歩いて、今の家を出ていくこと。
母親のことなど振り切って。それがなにより難しい。と思う。



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