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6時間目、美術の時間。

「あの時」、わたしは中学1年生の13歳だった。まもなく2年生に上がる頃の、日々の緊張感も薄れ、少し気持ちに余裕があって日々をこなし始めてきた時期。忘れもしない6時間目、美術の時間。

かなり自由な授業だったのもあって、わたしも友達と楽しくおしゃべりしながら絵を描いていた記憶がある。

そんな中、大きめの揺れ。

教室内はかなりザワついていたし、比較的静かにひっそりと過ごしていたわたしと友達が真っ先に「え?揺れてない?」と地震に気づいた。

美術の担当は、穏やかで優しい若い女性の先生だった。いつもの如く、クラスのやんちゃ男子たちが集ってダル絡みしていてお話していて、先生も揺れに気付いていなかった様子だった。「先生!地震!」と叫んで、ハッとした先生はすぐに机の下に潜るように指示した。

そのあとは避難訓練の時のように、揺れが収まるのを待ってから体育館に避難した。卒業した3年生以外の全校生徒が集まった。予定外の利用で暖房などはもちろんついていなかったため、急遽集められた体育館は寒かった。

卒業式は3/9に終えていたけど、まだ体育館のステージには大きな横看板がぶら下がっていて、揺れが収まったにも関わらず、それがずっと左右に揺れていた。

これが普通の地震では無いことは何となく分かっていたけど、海も山もない平地に住んでいるからか特に危機感もなく、そのあとすぐさま、帰りの会すらも執り行うことなく、強制的に全員が帰らされたことには違和感を覚え、大粒の雪がしんしんと降る中、親の迎えを外で待っていたのを覚えている。

今思うと、なんで雪も降ってて寒いのに外での待機だったかな。でもたしか、この時点でもう停電していたような気もする。

親が迎えに来て、車で家に帰った。すでに信号は機能していなかった。案の定、地域一帯が停電していた。

停電していたら家に帰ってもテレビも観られないし、当時すでにインターネットの住民だったわたしはその夜、パソコンに向かえないであろうことを残念に思った。

幸いにも、我が家は薪ストーブを普段から使っていたため、停電していても暖を取ることに問題は無かった。

そして、実家は農家。父が大きなショベルカー?から電源を取ってきて、薪ストーブのある居間に繋げてテレビも観ることが出来た。

しかし、その時に見たニュース映像は、現実とは思えない、まさに地獄と呼べるものだった。

揺れた時の映像が繰り返し流れ、日本地図の太平洋側があんなに真っ赤になっていたのを人生で初めて見た。

とんでもないことになっているんだと、そこでようやく知った。

その夜も大きめの揺れが続いて、地震が来ると家族全員で飛び起きては、懐中電灯を手に玄関を開けた状態で揺れが収まるのを待った。

停電以外は何事もなく、わたしの家は家族も親族もみんな無事だった。
13歳のわたしは、ただただ、テレビから流れてくる悲惨な映像が現実のものであるということを受け入れられずにいただけだった。


あれから13年の月日が流れ、現在は26歳社会人。「あの時」から、ちょうど倍の年齢になった。

ここ数年は自身のライブ活動を通して、岩手県沿岸や福島県など、太平洋側に行く機会が何度かあったおかげで、実際に被災地にも足を運ぶことが出来た。

その中でも印象に残っているのが、浪江町立請戸小学校。今は震災遺構として残っており、その津波の生々しい傷痕を2022年の春、目の当たりにしてきた。

学校という施設そのもの懐かしさを覚えると同時に、津波の破壊力を直に感じられて、とても恐ろしくなった。

当時、まさに中学生だった身。
もし自分がこの学校にいて、あんなに大きな地震が起きたらちゃんと逃げられていたのだろうか。津波が来るという危機感は持てたのだろうかと、遺構を見学しながら考えざるを得なかった。


時は変わって、2024年元旦。
今度は日本海側に広く津波情報が出ている画面を、母方の祖父母の家のテレビで見た。
サッカー日本代表の試合を観ていて、終わったあとのインタビュー中に、突然、連続的に鳴り響いた緊急地震速報の音が脳内にこびり付いた。
これがかなりのトラウマになってしまい、しばらくは不眠状態になり、夜中には酷い動悸に襲われるなど、今年は苦しい状態が年始から続いた。
あれ以降、一人きりの空間ではテレビを見られなくなってしまった。もうずっとリモコンにすら触れていない。

そんなわたしは今、海がすぐそこにあるところに住んでいる。万が一、大きな地震が起きて、海が暴れたりでもしたら会社も家も、きっとただでは済まないだろう。もう13年前とはうってかわって、いつ津波が起きてしまってもおかしくはない環境に、今はいる。

頭の中ではよく避難経路をシミュレーションしている。それが現実的かどうかはわからないけど、そもそも何も考えないよりはマシだと思って日々過ごしている。

世の中、知らないままでいることが良いとされることもあるが、震災に関してはやはりこの先もずっと、人間が存在する限り忘れてはならないし、定期的に知識として情報を得ることが大事だと思う。また機会があれば遺構も訪ねたい。


日本という、常に災害と隣り合わせの国に住んでいる以上、一生の安寧はどこにもないとわたしは思う。

わたしは日本が好きだ。特に東北が、そして、地元が好きだ。年々そう思うようになってきているし、永くこの地が続いて欲しいと日々願う。

だからこそ、今ある現実を大切に。
愛する人を大切に。
そして、自分を大切に。
明日が来るなんて保証はどこにもない。

2024年3月11日。

今年も静かに13歳の「あの時」を思い出し、理想と現実の狭間で揺れ動く、そんな26歳の夜を過ごしている。

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