見出し画像

ショートショート㊶「だれかの短歌」(1287字)

いつもはおむつ一丁でペットボトルに埋もれて寝ている忠夫さんが、その日はイヤホンをして あぐらをかいてうつむいていた。

「忠夫さん。」と言うと、パッと顔を上げて「しーっ」と口の前でゆびを立て、下を顎でしゃくった。見るとペットボトルや新聞紙が散らばったふとんの上に、イヤホンのささった集音器と、それに並んでメガネケースぐらいの大きさの、黒い生き物が横たわっていた。

ビロードの布のようなものにくるまっている胴体はコウモリそのものだったが、うつぶせになった頭は人間そっくりで、よく見ると、ふさふさした髪の中に右巻きのつむじが見えた。

「どうしたんですか。」と小声で聞くと「夜暑かったろ。窓開けて寝てたら入ってきたんだよ。」とさらに小声で答え、にやにやしながらはめていたイヤホンを差し出してきた。
それは薄暗い部屋でもはっきり見えるぐらい、穴の部分に何かこびりついていて一瞬ためらったが、そんなに上機嫌の忠夫さんは初めてだったので、浅く耳に入れてみた。するとボソボソした男の声で、お経のようなものが聞こえてきた。

驚いて「これが喋ってるんですか?お経?」と聞くと「短歌だ短歌。なかなかいいのをやるんだこいつは。」と言ってイヤホンをピッと引っ張り、自分の耳にねじ込んだ。
もっと聞いてみたいと思ったが、次のお宅に遅れそうだったので、目をつむって聞き入っている忠夫さんのそばに弁当を置き、昨日の分を回収すると急いで配達に戻った。

翌日行くと、それはカーテンレールの隅に釣り針のような爪を引っ掛けて、さかさにぶら下がっていた。顔はカーテンのひだにうずまっていたのでまた見れなかったが、そっと近付けた集音器から聞こえる声は、昨日よりはっきりと聞こえ、どこか訛りがあるように思った。

忠夫さんは何枚ものチラシの裏に、聞こえた短歌を大きな字で書き取っていて、それを声に出して読んだり解説したりした。

ふたりで気に入ったのは『人生は ただ一問の質問に すぎぬと書けば 二月のかもめ』というものだった。人生の空しさを詠んでいると思う、いや、ただそれだけのものだから、案ずるには及ばないという意味ではないかなどと、おむつ一丁にぶ厚い老眼鏡の忠夫さんと議論し合った。

思えばこの二年、ほぼ毎日弁当を運び続けてきたが、その日初めて忠夫さんが左利きであることを知り、奥二重であることも知った。

その翌日、部屋へ入ると、忠夫さんはふとんの上で壁を向いてうずくまっていた。驚いて具合が悪いのか聞くと、うっとおしそうに頭を振り、 昨晩うっかり窓を開けた隙にあれが出ていったことを、首の骨を掻きながら話した。

かける言葉が浮かんでこず、弁当を持ったまま黙っていると、ふと忠夫さんが「見たよ顔。」と言って、腕だけ伸ばしてそばのチラシをトントン叩いた。めくって見てみると、五十代ぐらいのごつごつした男の顔が、ボールペンで丁寧に描かれていた。

鋭い大きな目と、形のいい大きな鼻の下に少し笑った薄い唇があり、特徴的だったのか、まるい頬骨がぐるぐる何重にもなぞられていた。


その顔はなんとなく、本かテレビかなにかで見た、作家かなにかのだれかに似ていた。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?