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テキスト考7 誠実な文章は公私不問

お酒の入った状態で、どれだけのテキストが作れるか。つまらない実験であるが、書聖といわれる王羲之の最高傑作『蘭亭序』は、酩酊のうちに書かれたと言われる。幸いにも私が飲める体質であることを活かすに如くはあるまい。

酒と言えば、詩仙といわれる李白が思い当たる。杜甫もお酒は飲んだであろうが、酒を詩というテキストにして残して歌ったのは李白であり、詩聖ではなく詩仙といわれる所以であろう。岩波文庫の『李白詩選』はつらい時に読み返した本であるが、昨今の私が『李白詩選』を読んでいないのは、少なくとも不幸な境遇にいるわけでもない証左であろうか。

お酒を飲んでピアノを弾くことは難しいが、人と雑談に興じたり、文章を書くことは難しいことではない。あるいはもう少し酔いが醒めれば、ピアノを弾くことも一興であろうか。李白も琴を奏することを歌っている。

メールを書くという仕事が増えた現代、テキスト・文章を作ることをどのように再定義すべきか。前任者が用意してくれた定型文が、国語的に、文学的に、文脈的に、ニュアンス的に気に入らないときは、私の見識において推敲するがその推敲が「趣味の範囲」ではないかという反省もある。意が通じれば、それ以上の時間をかけるべきではないと思う一方、私の名のもとに送信されるメールのテキストが、洗練されていない日本語であることは、業務のモチベーションを大きく挫く。

内部監査を「閑職」という人もあるが、一定の規模以上の現代企業で内部監査が閑職であるわけがない。私の趣味の美術の鑑賞眼はそのまま内部監査における観察眼として活かせていると信じたいし、誤解の余地のない適切な文章記録を残すことは内部監査の本義の一つでもある。現代における「書く」という行為について、考え続けていきたい。公私に関わらず、適切な文章・テキストを作ることこそ誠実さというものではないだろうか。

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