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日本農業の歴史③

8.室町時代(1336年~1467年)

農民の自治組織である惣(そう)が発達し、農民が荘園という枠を超えて団結。年貢の軽減などを要求していたが、受け入れてもらえなかったことにより、大規模な一揆を起こすようになりました。

その代表的な出来事が1428年に農民が初めて起こした正長の土一揆です。

多くの地域で一揆が続発したため、幕府の力は衰えていきました。

また、三毛作が始まり、同じ土地で米、麦、野菜など1年に三回も生産し始め、室町末期には治水と新田開発の事業により、日本中の川は作り変えられ、土地の生産力を向上させました。

9.戦国時代(1467年~1574年)

応仁の乱(1467年〜1477年頃)後、大名が入り乱れて争う戦国時代になりましたが、異常気象による飢饉が広がりました。

戦国大名は、戦や他国への侵略により自分の領土を拡大し、食料確保をしていました。

また、お米の収穫量を減らさないように城や堀を作る土木技術を活かし、田んぼを水害から守る工事を始めました。

代表的なのは、甲州の武田信玄が築いた「信玄堤」です。
毎年雨季になると、洪水に見舞われていたので、20年程かけて完成させました。

「信玄堤」の特徴は、川の流れに逆らわず、各種の造形物で勢いを弱めることによって堤防の決壊を防ぐというものです。

10.安土桃山時代(1574年~1603年)

戦国大名たちは、新田開発を積極的に行った結果、新たな村ができ、農家戸数も増加しました。

そのため、領地にある田畑を調査していましたが、この時代には、豊臣秀吉が天下統一を達成して、太閤検地という政策で全国の田畑を測量して、農作物の生産高を把握し、納めるべき年貢の量を定めました。

また、農民は惣として年貢を納めており、個人としての責任が薄かったため、農業をやめて、勝手に土地を離れる人もいましたが、豊臣秀吉は、役人を派遣して農地を測量させると同時に、複雑化していた土地の所有関係を整理して「1つの農地に1人の耕作者(一地一作人の原則)」を定めました。

太閤検地によって、年貢を効率よく徴収できるようになり、農民を土地に縛り付けることによって、農民が勝手に離れられないように対策したのです。

この一地一作人の原則により、奈良時代から続いていた荘園制は崩壊し、全ての土地の管理者は太閤である豊臣秀吉となりました。

さらに、従来と変わったのが、土地の価値の示し方です。
太閤検地以前は、「貫高制」という土地の価値を通貨単位「貫」で示していました。しかし、太閤検地以後は、「石高制」という実際の米の収穫量で土地の価値を示していました。

11.江戸時代(1603年~1868年)

江戸時代も経済の中心は米でした。生産された米は年貢として納められ、江戸へは城米として、大阪へは商品として運搬され、各地では特産物として取引されていました。

また、江戸時代は他の国に攻め込んで領土拡大をすることができなくなったので、それぞれの領地で新田開発ブームが起こります。工事は大規模化し、江戸(東京)では、埋め立て地の工事が始まりました。

この結果、豊臣秀吉が太閤検地した頃の約150万町歩(約150万ha)であった全国の耕地面積が、100年後には2倍近くの約300万町歩に増加するほど、国土開発されました。

また、江戸時代は、基本的に寒い気候が続いていた時代で、農作物の不作が続いてしまった時代でしたが、その中でも江戸四大飢饉と呼ばれるほどの飢饉が起こりました。

①寛永の大飢饉(1642年~1643年)

1638年に九州で牛疫という感染病が流行し、西日本各地で牛が大量に死んでしまうという被害がありました。

1640年には、北海道にある蝦夷駒ヶ岳という山が噴火し、噴火によって降った火山灰が現在の青森県などで積もり、凶作となりました。

1641年は、夏には西日本(特に中国・四国地方)で、日照りによる干ばつが起きてしまったうえに、秋には大雨で、北陸地方では長雨や冷風などによる被害が出ました。この年には他にも洪水や虫害など、異常気象が多く発生しました。

結果的に、餓死者は全国でおよそ5~10万人といわれています。

② 享保の大飢饉(1732年〜1733年)

1732年の末から天候が悪く、年が明けてからも雨は続いて、夏になると冷害や虫害が主に中国・四国・九州地方で広まりました。

虫害は、イナゴやウンカなどが大量発生することで、深刻な凶作になりました。

餓死者は約1万2000人にのぼり、この飢饉全体では250万人以上の人が飢えに苦しんだといいます。

また、この大飢饉によって江戸では米不足に悩まされてしまいます。

売られる米が少ないということは、その分米の価格も上がってしまいます。

そんな中、江戸の庶民の間では「米の値段が上がったのは、米商人の高間伝兵衛(たかま でんべえ)が将軍吉宗に協力して米を買い占めているせいだ!」という噂が広まります。

この噂がきっかけで「享保の打ちこわし」という、江戸時代最初の打ちこわしが行われました。

この大飢饉のなか、瀬戸内海の大三島という島だけは、餓死者を出さずに済みました。

その決め手は、サツマイモです。

下見吉十郎(あさみ きちじゅうろう)という人が、瀬戸内海の島々にサツマイモを伝えたのです。

栄養価が高いサツマイモは、米が不作のなか庶民たちの命を救いました。

このことを知った将軍吉宗は飢饉の対応策として、青木昆陽(あおき こんよう)という蘭学者にサツマイモの試作を命じました。

こうして、東日本でもサツマイモの栽培が広く普及することになりました。

③天明の大飢饉(1782年〜1787年)

1783年の夏には東北地方に冷たく湿った風「やませ」が吹いて、冷害の被害にあいました。

また、同年の8月5日に長野県にある浅間山が噴火します。

噴火によって火山灰が広い範囲で降り積もり、農作物が育ちませんでした。

特に北関東地方の被害が大きく、全国の死者数は約100万人と言われています。

④ 天保の大飢饉(1833年~1839年)

1833年の春から夏にかけて、特に東北地方で大雨による冷害と洪水の被害にあいました。

農作物が凶作となり、大飢饉となります。

凶作のため米の価格は上昇し、庶民の生活は大変苦しくなりました。

また、商人に米の値段を下げさせるために一揆や打ちこわしが各地で起こりました。

一旦落ち着いた天候も、1836年にはまた冷害に見舞われてしまい、大凶作となってしまいます。

同じように米の価格は大幅に上がり、打ちこわしが各地で起こりました。

甲斐国(山梨県)で起きた百姓一揆「天保騒動」や大阪で起きた幕府に対する反乱「大塩平八郎の乱」は、このような背景があって起きました。

被害は天明の大飢饉と同じくらいではなかったかとされています。


《言葉の意味》

惣・・・農民たちが村ごとにつくった自治組織。

一揆・・・年貢の減免などを領主に訴えたり、役人を襲うこと。

治水・・・洪水などの水害を防ぎ、また水運や農業用水の便のため、河川の改良・保全を行うこと。

新田開発・・・新しく耕地を開発すること。

堤・・・川・池などの岸に沿って、水があふれないように土を高く築いたもの。土手。堤防。

石・・・容積を表す単位で、米1石は現在の約180リットルに相当。(1人が1年間で食べる米の量にあたります。)

城米(じょうまい)・・・幕府領や大名の城に貯蔵された米。

ha(ヘクタール)・・・面積の単位。10,000㎡(100m×100m)

打ちこわし・・・飢饉などで米が不足し,商人が米を買い占めたことによって、つり上がった米価を引き下げるよう訴えたり、米商人らを襲ったこと。



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