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自分語りの備忘録。2023年1月

【私の物語】
私はソーシャルワーカーとして病気や障害を持つ人やその家族からの相談を受ける仕事をしています。高校3年生の娘が一人いるお母さんでもあります。焚火と旅行が趣味の中年女子です。
 見た目では分からないかもしれませんが、「元ヤン」です。といってもヤンキーでやんちゃをしていたわけではありません。元・ヤングケアラーです。私がヤングだったころにはこういう言葉はなかったので自分で「元」って言っています。
 私は3人兄弟の長女です。ケアラーになるには家庭の環境がかかわっています。おじいちゃん、そのまたおじいちゃん(ひいじいちゃん)はお酒の飲みすぎがもとでなくなったそうです。高校生ぐらいの時に聞きました。そして私の父親はギャンブル依存症でした。父親は家族に内緒で借金を繰り返していました。借金が見つかった時には泣いたり騒いだりして母親とよくケンカをしていました。「死んでやる」「殺すぞ」という脅しもしょっちゅうで、鉈を振り回す父親から母親と一緒に夜中に逃げたことを今でも覚えています。
 見つかった借金は母親やおばあちゃんが工面して返していました。借金が見つかる度に「もうしない」と約束をするのですが父親のギャンブルは止まりませんでした。母親の口からよく「しゃくせん(借銭)」という言葉を聞きました。読んで字の通り借りた銭です。
 母親は私が小学生の頃から私にいかに父親がひどい人間かを言い聞かせるようになりました。我が家はこんなに大変なのだからあなたは私たちの助けにならなければいけないと言われ続けて私は大きくなりました。
 家庭の大変さは子どもの私にも分かりました。父親がみんなを困らせているから私は大人を困らせてはいけないと考えました。だらしない父親と一緒だとか、似ていると言われることが絶対に嫌で、正しくあるべき、優秀であるべき、そのために努力しなければ私には生きている意味はないと考えていました。そんな私は周りから見るとまじめで優秀、不平不満を口にしない、良い子に見えたようでした。
 子どもの居ない親戚が何人かいたのですが、私を養子にしようという話が持ち上がっていたようです。みんな老後の世話をしてくれる人が欲しかったようです。それには母親が大反対をしてその話はなかったことになりました。母親は愚痴の聞き役、世話役として私を手放したくなかっただけです。父親の悪口だけでなく、知らなくても良かった親戚の事情や悪口を沢山聞かされました。
 私は不平不満を言わないのではなく、「言えない」状態だったことには誰も気が付いてはくれませんでした。
 「世話役になること」が私の生きる意味だと考えて成長した私は、高校生の頃から人を助ける仕事がしたいと思うようになりました。社会福祉が学べる大学への進学を希望していました。当時、地元には社会福祉学部のある大学はなく、県外の大学に行きたい、奨学金を借りて働きながら学校に行きたいと母親に話しました。しかしそれは許してはもらえませんでした。ずっと母親の元にいて一緒に住んでいるひいばあちゃんの介護を手伝ってほしいと言われました。
 この時、私は反対を押し切ることができませんでしたが希望の学部に行けないことにはひどく落胆しました。勉強する意欲もなくなった私は成績も落ち、高校3年生の受験ではどこの大学にも行けない酷い結果しか出せませんでした。就職活動もしていなかったので仕方なく嫌々一年浪人して行きたくもなかった地元の大学に合格し入学、卒業しました。高校三年での受験の失敗は私にとって「頑張れるはずなのに頑張らなかった」経験になりました。ダメな自分を決定づける体験になりました。地元の大学での4年間も無駄ではないはずと半ば強引に自分に言い聞かせて大学に通いました。
 大学卒業後、私は福祉の現場に就職し、働きながら通信教育で勉強して福祉専門職の資格も取得しました。しかし、大人になって努力して夢を叶えて…めでたしめでたしとはいきませんでした。
苦しくても頑張ること、優れていることを目指さねばならないという考えに固執していたので、少しのことでも指摘されると自分を全否定されたように考える、要領よく、楽しそうに仕事をしている人を不真面目だと決めつけて批判したりしました。専門資格を努力して取得したのはいいのですが、「取得できなければ生きている価値がない」と思いつめてもいました。「良い支援者」だと誰からも評価されたい、支援者とは「よくあるべき」と考えていました。「良い支援者」ではない人を非難して攻撃することもありました。ある研修に参加したとき、面接演習が下手な参加者がいたのですが「支援者なら人の話をちゃんと聴け!」と怒って怒鳴ったこともありました。
 一生懸命援助の仕事には取り組んだので評価されることもあったのですがとても扱いづらい面倒くさい人だと思われていたにちがいありません。
 「良い支援者」の私が揺らぐ出来事が起こりました。10年ほど前、自分の母親と似た相談者を担当しました。うまく関係が作れず、怒鳴られる、ケアプランを突き返されることが続きました。一番言われたくなかった言葉「支援者のくせにあんたは何にも役に立つことができていない」と言われました。良い支援者でなければ生きている意味がないと考えていた私は心が殺されたような感覚になりました。研修では他者に怒鳴り散らした私ですがこの相談者には何も言い返すことができませんでした。そしてこの援助関係について「無理です。」「辛いです」「変わってほしい、助けてほしい」ということを上司にも同僚にも言い出すことができませんでした。辛いと口にすることで本当に自分がダメな人間になってしまうようで辛いことを認めることもできませんでした。業務量の多さも重なって間もなく私は仕事を休まなければならなくなりました。「良い支援者」「優秀な支援者」でありたいがために進学した大学院での勉強や研究も続けられず、辞めてしまいました。
 少し元気を取り戻して仕事を再開したときに初めて依存症からの回復を目指す人に出会いました。依存する物質をやめている彼、彼女たちは「普通」に見えてなぜ支援が必要なのかが最初は分かりませんでした。しかし、相談援助が続き、彼らの内面や生きてきた道筋を聞いて自分と同じような体験をしたことのある人、同じような考え方、価値観にとらわれて生きづらくなっている人がいることを知りました。ここで初めて子どもの頃からたくさん傷ついてきたこと、自分の努力だけではどうしようもなかったことがあったのを認めることができました。
 今の私は過去は過去として見つめて今、ここを生きています。
しかし、長年持ち続けた「心の(悪い)癖」はなかなか治りません。仕事をする中で幼い時の自分、両親、祖父母を重ねてみてしまう人の相談を受けることがあります。その度に心が揺さぶられます。相手の怒りや悲しみ、妬みの感情をぶつけられる、共感しすぎて相手の痛みを自分の痛みのように感じて心が疲れることもたくさんあります。
 自分の心が安定するように自分自身のメンテナンスをしています。私のような過去が職業選択の動機になって援助の仕事をしている人は実はたくさんいます。まずは自分自身がよりよく生きられるために同じような体験を持つ支援者が話して元気を取り戻すことのできる自助グループを作りました。また、傷つきからの回復のために必要な時にはカウンセリングも受けています。
 自分の感情に気づき、今の自分を認めることは回復につながります。自分の中に自分を慈しむ「もう一人の自分」を作ることができれば辛いことも、喜びもある自分の人生に自分で責任をもって向き合うことができるのだと考えます。
 
【過去と他人は変えられない。でも過去を考え直すことで「過去」が「今」にもたらす意味は変えられる。】
 不本意ながら4年間在籍した大学だったけれども、自分なりには努力をした4年間でした。「努力をしない私に意味はない」と考えているので、専門の授業以外にも障害児・者支援のサークルにボランティアとして参加したり、アルバイトは児童入所施設の介護補助などをしていました。集中講義でたくさん専門の単位を取得する、社会人向けの研修や講演会なども自分で探してきて参加するなどしていました。社会人になった時、ストレートで社会福祉学部を出た人たちに負けない、いや、それ以上に優秀だと、良い専門職だと評価されることを目的にし始めました。
 努力の甲斐あって成績はほとんど優で卒業でき、福祉業界の中では比較的好条件の社会福祉法人に就職することができました。
 他者からの評価や賞賛に固執して努力したことは残念ですが、この努力も無駄ではなかったし、今の自分の糧になっています。現在、知的障害、発達障害、精神障害を持つ当事者の相談や障害を持つ子どもの子育て相談に従事する仕事をしていますが、この時、真面目に勉強した教育心理学や発達心理学はとても役立ちます。むしろ社会福祉学部だったとしたらここまで深くは学べなかったと思います。
 自宅通学だった4年間だけれども生活環境を大きく変えなかった事も結果的には今私が生き延びられている要因だとも最近は考えるようになりました。大学進学を期に県外で一人暮らし…。これをきっかけにしてメンタルのバランスを崩したり、病気になることがどれだけ多いかは相談援助の仕事をしているとわかります。ゼロか100かの極端な思考、嫌なことが断れない、他者の評価や賞賛に固執する私、人に助けを求められない私が知らない街で知らない人の中で生活していたとしたら…。今この文章を書いていない可能性は高いでしょう。不本意ながらヤングケアラーの役割を続けながら私は生き延びることができたのだと考えます。
 子ども時代を子供らしく生きられなかった。大学受験という人生の重大な選択を他人の意思にゆだねてしまった。そのことに対する悔しい気持ちや惨めな気持ちはゼロにはまだなっていない。でも、この体験を今やっと「悔しかった」「惨めだった」と認めて振り返ることができて自分の心のざわめきが落ち着くのを感じることができています。
 受験に失敗したこと、志望校ではなかった大学に進学したことについて長い間「途中で受験勉強を諦めて努力をしなかった私が悪い」「高校はそこそこの進学校に行かせてもらったにもかかわらず、地方の国立大学に「しか」合格できなかった私がバカだから仕方がない」と考えていました。希望の進学ができなかったことは家庭の経済的な理由と家族の(母親)の理解がなかったことも大きな原因のひとつなのに。それを認めることができなかった。母親が自分の味方にならないことを認めるのが惨めで怖くて悲しくて自分のせいにしてケリをつけようとしていたのだと今なら理解できます。「過去と他人は変えられない。変えられるのは自分と未来だけである。」という精神科医エリックバーンの言葉がありますが、アレンジして「過去は変えられないが、過去が今にもたらす意味は変えられる」と私は言いたい。
 まあまあ頑張ったじゃないか、必死だったんだ、私。お疲れ、自分。そう自分自身を少し労えるようになりました。そして、自分自身をちょっと労えるようになった私が少しだけ愛おしいと思うのです。

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