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夫の記録簿

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2024年11月に十三回忌を迎える夫のお話です、本人は自分ほど苦労を重ねた人間はいないと思っていたのでしょうが、果たして如何?
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私の夫は映画監督

私の夫は映画監督

死別した夫の職業は色々だったが、常に映画監督でありたかったんだと思う。

家族のために売れない監督さんではいられなかった。

いっそ、結婚なんかしなければ良かったのにと、私は何度も思った。

少しずつ夫のことを話してゆきたい、忘れないうちに。こんな男がいたんだということを、一人の方にでも読んで頂ければ嬉しい。

pcもスマホもよく分からず、7年前に娘が買ってくれたiPadでおそれも知らず投稿。

pcもスマホもよく分からず、7年前に娘が買ってくれたiPadでおそれも知らず投稿。

誇り高く生き抜いた夫の事を日本中のたった一人にでも知って欲しくて投稿。

1949年生まれ



東京都の西の外れと紹介された所在住
#自己紹介

推敲中

推敲中

2020年の11月からアイパッドに入力し始めたものの、

ただ書きなぐっただけ。

これでは夫に申し訳ない。

一旦原稿用紙に書き出して、推敲していくつもり。

400字詰め原稿用紙で25枚程。

焦らずゆっくり書きすすめてゆく。

未だに馴染めない東京盆

未だに馴染めない東京盆

今年も7月13日夕方迎え火を焚く。

10回目の迎え火。

夫は大学卒業後D広告代理店の映画社に入社。

その時出会ったフリーの監督さんに憧れ、たった数年で高給を捨て会社を辞め自分もフリーになる。

今も昔もフリーランサーとはきこえはいいが、食べていくのは大変!

その後縁あって私と結婚。

子どもが少し大きくなって、私は団体職員になることができた。

夫は晩年、男が稼ぎがないのは辛いと、隠れてま

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まず青春篇

まず青春篇

D広告代理店で仕事をしていた時のこと、CM制作中、なんのコマーシャルだかはっきり覚えていないが、例えば洗濯洗剤だとしよう。

そこそこ汚れは落ちるが真っ白になるという宣伝文句を謳わなければならない、それを苦にして自殺した仲間がいたそうだ。

誇大広告ではないかと、気に病んだのだろう。

夫はまだまだ駆け出しの時、広告とは何か?分かり始めた頃かも知れない。

フリーランサー

フリーランサー

和気藹々と会社で作品造りに励んでいた頃、社外のフリー監督さんの記録映画の助監督についた。

灯台の整備をされる方々の生活を記録する映画を作るために、監督さんと少ないスタッフで、全国の灯台を廻ったと聞いている。

自分達の今までの、物作り映画作りが何と甘かったかとそのロケで気づいたそうだ。

作品への取り組み方が全く違ったのだと思う。

そしてその監督さんに憧れて恵まれた条件の会社を辞めてフリーにな

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安定期

安定期

夫は10年程東京でフリーを続け(実家暮らしの為母親や同居の姉妹からもしょっちゅうお小遣いを貰っていたらしい)、その後つてを頼り地方の民放テレビ局の子会社で記録映画制作に携わる。

その頃ご縁があり私達は結婚した

子会社の映画社社長のご紹介で初めて会ったお店での、私の呑みっぷりの良さが気に入ったそうだ。

私達には8歳の年の差があり、私の親族から結婚に少

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親子映画

親子映画

都内での実家暮らしは安定していたが、なにせ父親の仕事の手伝いとは名ばかり。

父親から小遣いを貰っていたようなもの。

1年程で、夫が東京に舞い戻ってきたのを知ったプロダクションの方から時々連絡を頂き、いつまでも親のすねかじりでは肩身も狭く、何とか家賃を払えそうな部屋を見つけて親子3人で転居。

親子映画をご存知?

文字通りお母さん達が子ども達に見せたい映画を作る、1人500円ずつ位出しあって作

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抵当物件

抵当物件

G監督の親子映画もクランクアップし、続いて別の監督さんから声がかかりまた出かけて行ったが、すぐに帰ってきた。

監督さんと意見が合わなかったらしい。

もう実家住まいでもなく家賃も払わなければならない。

私も1歳過ぎたばかりの娘を連れて働ける所をさがした。

当時住んでいた鎌倉の老舗喫茶店のママさんが、開店前のお店のお掃除に子供も連れていらっしゃいと言ってくれた。

そのおかげで保育園にも入れた

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差し押さえ

差し押さえ

テレビの15分番組が順調に視聴率を頂き、取材の為に全国を飛び回っていた頃、預り住んでいた家の留守番役が不要になったと言う事で再び転居。

鎌倉の材木座にある小さなアパートに引っ越し、子供達も由比ヶ浜のすぐそばの保育園に入ることができ、私も自営セールスの仕事を始めた。

保育園では海へ大仏さまへと願っても無いような毎日のお散歩で、子ども達は元気に成長した。

そんな折突然アパートに数人の男性が現われ

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お引っ越し

お引っ越し

私達一家は父親が転勤族でもないのに8回も引っ越しをした。

テレビの15分番組も視聴率は安定していたが、スポンサーさんの都合で終了し、生活の糧を求めて私の出生地でもある岡山へ。

当時、四国・九州地方の公共団体はダムや橋梁の建設ラッシュで、各団体から工事の記録映画制作が求められ、撮影部さんは東京から飛行機で、演出の夫は経費節約の為夜中に事務所兼自宅の岡山を私の兄の知人から譲って貰ったスバルで出発し

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夫   実家との決別

夫 実家との決別

夫の父が亡くなり私達は東京に戻り、夫は父の遺産相続手続きを専門家の手も借りず全て一人で行った。

ちょうど長女が小学校に上がる時という事もあり実家を建て直して私達も同居という話になり、夫は大手ゼネコンに勤める幼馴染に設計を依頼、何度も打ち合わせを重ねてGO!という時になって、実家に住む未婚の姉妹から待ったがかかった。

夫は私に経緯の説明はしなかったが、いわゆる遺産相続争いだったのかも知れない。

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貧  乏

貧 乏

夫の映像の仕事は有ったり無かったり、と言う事は収入も有ったり無かったり。

その頃私は市の外郭団体で嘱託職員として雇用され、豊かでは無いが親子四人で暮らしていた。

そんな折、沖縄出身の旧い知人に誘われて、夫は沖縄の映画社に長期助っ人としてカバン一つ持って出かけた。

お正月には沖縄出身のスタッフも、東京都下に自宅があり家族もいるので帰省。寮がからになるので自由に使って良いと言われ、飛行機代を捻出

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馴れない仕事

馴れない仕事

映像の仕事は全く声がかからなくなり、経緯は覚えていないが、都内のマンションで管理人の仕事を始めた。

大手製鉄会社の方が理事長を務め、偶然に夫と出身大学が同じと言う事もあり、丁寧に接して下さり、夫も馴れないながらも気持ち良く精を出して懸命に取り組み、居住者の皆さんにも慕われていたようだ。

ところが、海が好き、子ども達が幼かった頃のように海の側で暮らしたいと、うずうずして来たようで、熱海にドライブ

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