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確信と自信

なんだかHUNTER×HUNTERの話タイトルみたいになった。カクシン×ト×ジシン

「何か興味あることはないの?」と聞かれる機会があった。人並みに本は読んでいるだろう私は「いやあ、そんなことは無いんですけどね」と答えた。興味あることや思ったことを言語化することがてんで苦手になってしまった。
自分はこれに興味があるんです、こういうことを考えてるんです、と言うにはある種の自信が伴うのではないだろうか。

「そんなことは無いんですけどね」と言った時、「あ、今の自分にはこれを言える自信も責任もないんだ」と感じた。何か発すること、そもそもが発信することに自信やそれに近い感覚が必要だと考えた。ただその自信がどこから来るのか、と考えると恐らくは他者意識では無いだろうか。それを言った時、自分がそれを行った時にどう思われるか、これがその自身の有無につながっている。そしてこの二極化が激しくなっているのが現代ではないかと考察する。

人とのある程度の繋がりやすさがある中で、自分が発信したものに対して「テキスト」という可視化された存在で反応が残る。これが当たり前になった時、自然と反応を思考することが身についているとも言える。習慣化された文字化と同時に習慣化される反応への意識。これがあるからこそ「人は人、自分は自分」のような考え方、アドラーが流行するところもここにあるかもしれない。世界を複雑にしているのは自分だと思うには、情報が過剰に見えてしまえるのも世界と言えるだろう。

他者との境界線を引き、自他を生み出す上で自分の枠の中に確信と自信、きっとこれが濃度を変えて存在している。何かを生み出すことと自他を生み出すことはイコールだと言えるのかもしれない。

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