見出し画像

note書くのって難しくない?って話。

noteをはじめて1週間経ったらしい。
ここ数日感じていることは「難しい。」いざ書くとなると何を書けばいいのか分からなくなる、そんな事態に陥っている。最初はこれを書こう、あっこれ書きたい、の気持ちから何を書けば「いいんだ」になっていることを着実に毎日感じている。書きたいものを探すような日々。そんなものはなかなかに見当たるわけも無い。私はただの人なのだから、特別なことは何も無い。平凡に平凡を重ねたような日常。強いて言うならば最近昼寝が習慣化されていることくらいである。

昼寝、子どものようにご飯を食べたら眠くなりそのまま布団に入りすやすやと寝てしまう。寝る選択を取っている。癖づいてはいけないと思いながら寝てしまう。あの背徳感に魅了される人は少なくはないだろう。そもそも昼寝という文化から離れるのはいつなのだろうか。というか、私は文化と思っているがそんな当たり前のことなのだろうか。私が保育園児の頃は昼寝の時間があり、慣れない保育園の布団でみんなでゴロ寝するのが楽しくもあった。まだ外は明るいにも関わらずカーテンで陽を隠す。陽が当たらないのにあたたかい、あの時間が何だか眩しく遠いものになったのは小学校にあがり、昼寝をしない生活になったことが大きいだろう。席につき、前を見て、教科書やノートを開き、給食を食べ掃除をし、また席につく。5時間目が眠いのはきっと昼寝した過去を覚えているからかもしれない。

刻まれている子どもの頃が私たちを未だに楽しませるのかもしれない。時に懐かしいという気持ちにさせるのかもしれない。今になってする昼寝はどこか贅沢で、憩いを表すような印象だ。活動するはずの昼間に布団の中に隠れる、ある種の逃避行動だ。寝る時に息を吐く事はたやすい。普段詰まった中で落ち着いて息を吐けるということが贅沢に感じるほど、詰まった日常を送る人もいるだろうし、そういう人にこそ休んで欲しいとも思うものだ。

書くのが難しいと思ったとはいえ、書いてしまえば書けるものだとも感じたりする。読む人のことを「何も」考えていないからかもしれない。だけど考えていないとは悪なのだろうか。「ちゃんと考えろ」と言われることがある、「考えてえらい」と言うこともある。考えることは正しいこと、ならば考えないことは悪なのだろうか。そうして生きられている人もどこかにいるのではないかとも思う。考えないことで身を守る、そうせざるを得ない人がどこかに居ること、その言葉の前に対峙するのはありとあらゆる人だということ、当たり前だよなとも思うけれど、私の推しは言っている。「ちゃんと言葉にしないと伝わらない」まさにそうなのだ、言葉とはある種の形であり、コミュニケーションの道具という形を借りた生き物だとも言える。使い方次第で何にでもなれる、まるで水のようでもある。言葉が好きだから綴るこのnoteという場所が如何せん好きだとも思う。
書くことは難しい。言葉にすることは責任を伴うように感じる。だけど書けば考える、考え始めるのだとこのnoteを書き始めて感じた。

きっと読む人なんていなくても2割くらいは思っていたい。note書くのって難しい、の難しいはそこに眠っている。

「note書くのって難しくない?って話。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?