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時間は確かに、ここにいた


あれはたしか、私が大学生の頃。
この本がTwitterの丁寧な生活界隈でやけに流行ってて、当時から江國さんが大好きだった私はなんかちょっと嫌だった。

でも、古本屋さんで偶然見つけて、持ってなかったので買ってみた。

まだ本当の恋も愛も知らないとき。

だから、読んでみたけど全然ピンと来なかった。
それをこの前、実家に帰ったタイミングで読み返してみた。(実家に置きっぱなしにしていた)

すごかった。
数年前はピンと来なかった言葉たちが、本当の恋、初めての愛、そして本当の失恋を知ってしまった今の私には悲しいほどに響き、刺さった。
ぜんぶぜんぶ悲しくて、だけど悲しさの中には確かな幸せがあって、読むことをやめられなかった。心がぎゅっとなるのを分かっていながら、頁を捲る手がとまらなかった。

なかでも私がすごく幸せな悲しさを感じた詩が、以下の二つ。

それにしても随分青い空です
ほら 私はちゃんと
空にあなたの横顔がかけます
私のことなど考えてもいないにちがいない
あの男の横顔です

「こんなに晴れた真昼ですから」より
時間は敵だ
ときが経てば傷は癒される
せっかくつけてもらった
傷なのに

「時間」より

とくに「時間」という詩は短く、易しい言葉しか使っていないのに、「あ、これ私がずっと思っていたことだ」と、ハッとした。

「こんなに晴れた真昼ですから」は、一部分だけを抜粋したが、全て読むとより一層虚しくなる。
そう、よく晴れた日、自分のことを思ってもいないであろう愛する彼を思い浮かべると私は虚しくなる。朝と昼は虚しい。夜はどっしりとしていて、なんだか「ひとりじゃない」と思うから虚しくない。寂しいけれど、朝や昼の方が寂しい。その寂しさ、虚しさを空気ごと純粋に切り取ったような詩だ。


人を好きになる、ということも知らなかった私が江國さんの本を読んで感動したのだから、今の私がもう一度全てを読み返したらどうなるのだろう、私は今、何をどう思うのだろう?

これを機に、江國さんの本を全てもう一度読み返してみたくなった。
素敵だなぁと思って読んでいた文章が、今読むとこの詩集みたいに共感して悲しくなるかもしれない。あの人を思い出して泣いてしまうかもしれない。でも、読みたい。

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