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ブルーの先は一方通行で2

※お立ち寄り時間…5分

―袖うち振りし 心知りきや―


学校の図書室は、少しばかり特別だった。
図書室は、離れにある小さな林の中にあった。初代校長がこよなく書物が好きで、退職時に寄贈したと言われている。
運動部が練習しているグラウンドを横目に、飽きることなく図書室へ向かう。部活動中は、ほとんど人が来ない。人が苦手な私にとっては、隠れ家のような存在だ。


最近、建てつけの悪くなった扉を開ける。窓の一部がステンドグラスになっており、細部にこだわりのある図書室だ。ほんの少し埃くさい本の匂いが鼻先を捉える。この何とも言えない匂いが本当に心地いい。
今日は、いつもよりも少し早い時間だったため、念のために先客がいないことをざっと確認し、窓際の席に荷物を置く。読む本はもう決まっていた。

『あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』

五限の授業終わりに、古典の雪原先生が端正な言葉を板書していた。
かつて恋愛関係にあった額田王が大海人皇子へ読んだ和歌である。それも、現在の夫である天智天皇がいる宴会で。

「人を愛する」とは一体何なのか。

私には「好き」という感情がおそらくない。

クラスメイトの子達は、専ら好きな人の話で盛り上がり、毎日がジェットコースターみたいにキラキラしている。目が合うだけで、幸せな気持ちになる。一日話ができなかっただけでこの世の終わりにみたいになる。

『橘さんは好きな人いる?』

そんな他愛もない質問が一番怖い。
最適な答えがまだ見つからない。
素直に言えば、分からない。

きっとそんなこと言ってしまったら、周りから変に思われる。だから本当の答えはいつも心の奥底にしまって、困ったように笑って誤魔化していた。すると今度は、周りが遠慮をして段々と声をかけなくなる。

こんなラリーが何度か続いて、一つの季節が終わる頃には、私はいつの間にか「ひとりぼっち」になっていた。悪くはなかったけれど、特別な行事があった日の夕方は、格別に「ひとりぼっち」だった。

雪原先生は、授業の最後にこう言った。
『返歌を探してみてください。探し物が見つかるかもしれません。』

ゆっくり顔を上げると、雪原先生と目があった。滅多に笑わない先生が細く笑った気がした。雪原先生が笑うときは、何かがある時。そんな話を聞いたことがあるような、ないような。それで、急いで図書室に向かったのである。

「万葉集は…。」
「万葉集ならこちらですよ。」
「え…」

知らない声が降ってきて驚き振り返る。先客がいないと思っていたのに、見上げると頭一つ上に、顔があった。栗色の髪の毛に黒目がちの表情。綺麗な子だった。ドキリとした。

「橘先輩、万葉集なんて勉強熱心ですね。」
「どうして名前…。」
「そんな綺麗な顔してて、自覚ないんですか。とびきり有名なの。」

カラッとした声で笑う。言葉に全く嫌味が感じられない。本棚の一番上から背伸びをしてひょいと掴んで手渡してくれる。ネクタイの色を見ると一学年下だった。

「はい、どうぞ。」
「あ、ありがとう…。」
「どういたしまして。」

屈託のない素直な笑顔だった。初対面なのに、躊躇なく笑った。一目見て分かる。とても性格のいい子だ。走ってもいないのに心臓が波打つ。声がもつれて上手く出てこない。

「あ、あの…。」

戻ろうとしているのを咄嗟に呼び止める。自分でも分からない。何故声をかけたのか。何故その場きりにしなかったのか。何故だか分からないけど、体が勝手に動いていた。
「名前…。」
「名前…?あ、何の和歌を探してるんですか。」
「え、あ、その、額田王への返歌を…。」


そっちじゃない、と頭の中で声をかけつつ、それでも話せたことに胸がドキドキする。表紙を開け、頁を指先でめくろうとすると、また、ひょいと手から本が離れた。

「あかねさす…の方ですか。」
「え、あ、はい。」
「だとしたら、これだったかな。」

『紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我れ恋ひめやも』

「やんわりとたしなめる額田王の歌に対して、まっすぐに情熱を伝える歌ですね。」
「情熱的…。」
「所説ありますけど、余興で和歌を送りあったのではなく、かつての妻に対して堂々と恋心を届けたと解釈する方が好きです。」
「恋心…。」
「橘先輩も万葉集で何か見つかるといいですね。」
「あ、えっと。」
「また来ますよ。」

軽くカバンを掴むと、それじゃあ、と言うかのように軽く手を上げて颯爽と出て行ってしまった。あっという間に、またいつもの静かな図書室に戻る。

「また、来るんだ…。」

緩く柔らかく夕日が図書室に差し込み、いつの間にか、辺りは淡い紫色に染まっていた。私以外誰もいないしんとした空気に包まれる。
ふと、手元の万葉集の貸し出しカードに目を落とすと、一行目に名前があった。

『佐久間 あゆむ』

「…佐久間さんって言うんだ。」

体中に毒が回るみたいに足先から頭の先まで熱がほとばしる。
何だかよく分からないけど、名前だけじゃなくて、もっと深く知りたい。

『あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』

君が居なくなった先へ控えめに袖を振ってみる。図書委員も誰もいない図書室で。
未来のような不確かなこの気持ちは、誰にも気が付かれていない。きっと自分も、そして君にも。

夕日が眠ってしまった後も、私の頬は、まだ茜色に染まっていた。


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眠れない夜に

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