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本屋には「きっかけ」が満ちている

かつて私は本が嫌いであったという話をしたことがあったけれども、まともに純文学を読み始めるようになったきっかけは、間違いなく作家の中村文則さんの『遮光』にある。

出会いのきっかけも同様に書いてあるが、今思えば本屋における偶然の出会い(いわゆるセレンディピティである)であったように思う。
なんせ、そのときたまたま実家の駅前の本屋で「いま売れ筋です」みたいな感じの特設コーナーで置いてあっただけなのだ。もともと本に関心がない私が「とりあえず薄いから」という理由だけで(他にもっと薄い小説はあったはずなのに)『遮光』を手に取ったのは今考えても不思議な現象である。

よく言われることだが、ネット通販は買いたいものが決まっていると非常に便利ではあるが、別に買いたいものがないといまいち使い勝手が悪い。
かたや本屋は(大規模な店舗であればあるほど)買いたいものが決まっていると探すのに難儀するのだが、買いたいものがなくただ暇であるときには時間を費やすのにこれほどよい空間はない。本屋は漫然と過ごすにはもっともよい空間のひとつである。

先日、暇を持て余して本屋に行った。いつものように一列一列本棚を眺めて、タイトルや装丁で気になった本を手に取り、ぱらぱらとめくってみる。小説なんかであれば文章にビビっとくればそのまま購入するが、その日はなかなかビビっと来なかった。
「きょうはだめかあ」と諦め半分、くるりと振り返ったときに一冊の小説が目に留まった。
中村文則さんの『私の消滅』という作品だった。それはもうドン・キホーテの特売のポップよろしく「バーン」と自分の目に留まったのである。

「お、久しぶりの中村文則…」と思いながら手に取ると、やはりしっくりくる。本棚をよく見ると、珍しく順不同で適当に本が並んでいたので、『私の消滅』は一冊だけしか見当たらない。これをセレンディピティと呼ばずして何と呼ぶのか―こりゃ買いだということで、レジへそのまま向かった。

しかし、考えてみれば中村文則さんの『遮光』は彼にとって2冊目の小説であり、『私の消滅』は17冊目の小説だという。私は高2の15~16歳のときに『遮光』に出会い、30歳になって『私の消滅』に出会った。おおむね15年という月日が経ち、そして中村さんもその間に15冊の小説を書き続けてきたのは不思議な偶然である。

中村文則さんは『遮光』の刊行後に「小説の未来は暗いですが、何とか抵抗しようと思っています」という言葉を残している。中村文則はいまなお筆を折っていないのであり、いわば「抵抗の15年」を積み重ねてきたわけである。
「はて、私の15年はなんだったのだろう」――。本を片手に『遮光』に出会ってから歩んできた年月を振り返りながら、帰り道を歩いた。

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