見出し画像

トマト缶の一期一会。ドイツ生活のぼやき - 9

ドイツ統一の日は10月3日でした。1990年に東西ドイツが再び一つの国になったことを記念して定められた祝日です。前の記事に書いた通り、そういった祝日は基本的にどのお店も閉店するので、祝日の前日はスーパーなどが混みあいます。

10月2日の午後になってようやく、次の日が祝日だと気づいたわたしと夫は、空っぽの冷蔵庫を見て慌てて近所のスーパーに買い出しに行きました。たった一日の祝日なのに、冷蔵庫が空っぽだと心配になってついついすぐには使わないような食材まで買ってしまうのは、一体なぜなんでしょうね。この日も必要な野菜の他に、ツナ缶やパスタのストックを買い足してしまいました。

ドイツのスーパーにも「お買得品」というものがあって、最近はチラシや紙のクーポンだけでなく、アプリで安い商品やポイントが倍になったり、割引価格からさらに安くなったりするクーポンをもらうことができます。環境保護を重視するドイツの近年の動きとしては、紙のチラシやクーポンをもはや廃止してしまい、すべてデジタル化してWebサイトやアプリのみで確認できるように各スーパーが改革をおこなっている印象です。

大きなスーパーの店内を歩いていると、どの商品が割引されていて、どの商品がアプリによって「さらに割引」になるのか、目を引く色で掲示されているのですぐにわかります。いつものルートで、野菜、卵、乳製品……と歩いていると、なんと「ムッティ」のトマト缶が安いではありませんか!
(リンクは日本版の公式サイト)

日本の公式サイトから

このメーカーのトマト製品はどれも本当に美味しいのです。トマト缶やトマトピューレ、トマトペースト、いろいろとありますが、トマトなんて煮込めばみんな同じでしょ?なんて思うかもしれませんが、明らかに旨味の濃度が違うのです……!

「ああ!見て!ムッティが安い!」

そういって夫の腕を引いて、特別に用意された台に並べられたトマト缶を指さしました。

トマト缶にもいろいろとあって、中に入っているトマトがホールだったりカットだったり、あとはバジルなどで味が加えてあったりと、好みに合わせて選ぶことができるのですが、どれも基本的に赤いトマト色のパッケージなので、慎重に文字を読む必要があります。わたしたちはカットされたトマトだけの缶を使うことが多いので、それを探すためにいくつか手に取ってドイツ語の文字を読み始めました。

「ムッティ、う~む、美味いよなあ!」

トマト缶と睨めっこするわたしたちの真横で、突然、地元の人らしき年配の女性が大きな声で言いました。強めの方言、痩せていて低い背、少し険しい顔つき。最初はびくっとして、きっとわたしたちに話しかけたわけではないだろうと思うことにして、トマト缶選別作業を進めようとしたのですが、「ムッティ、ムッティ……どれがいいんだ?」と女性は話し続けます。

もしかしてわたしたちに言っているのか?周りを見ると、誰かに話しかけるような距離にはわたしたち二人しかいません。思い切って答えることにしました。

「ムッティ、美味しいですよね」

夫も決まりきらない愛想笑いしながら「そうそう、ムッティは美味しいよね」とわたしが言ったばかりの言葉を繰り返します。

「そうなんだよ、だけどさ、何が違うんだか分からん!どれがいいんだい」

ああ、なるほど。ぶっきらぼうに聞こえるおばあさんは、ムッティが美味しいということは知っていても、トマト缶自体あまり頻繁に使うわけではないのかもしれないとようやく気が付きました。

「何を作るか、いや、あなたの好みによりますよ。どれも美味しいですから……ぼくはこれが好きかなあ」

普段から誰に対しても丁寧な夫は、眉毛を釣り上げているおばあさんにも真剣にアドバイスを始め、わたしたちが買うのと同じ缶を見せていました。トマト缶なんて、本当に好みで決めるものだと思うので、それ以外に答えようがありませんが、おばあさんは好みが何なのか分からないから困っているのではと思ったわたしは、「これ、バジルが入ってないんですけど、シンプルでどんな料理にも使いやすいですよ」と付け加えました。

「ふむ、バジルなし。ムッティ、うむ。これ買ってみるかな、ヘッ」

わたしたちのおすすめ品をかごに入れて、皺のたくさん入った顔で微笑んできました。微笑んだって険しいので、不思議な表情です。

「この人、イタリア人なんですよ。間違いないはずですから」

わたしが冗談っぽく言うと、夫も「そうです、イタリア人のお墨付きですよ」と笑いかけました。すると、彼女のしわくちゃの中の目が少し輝いたのが見えました。

「そうかい、イタリア人かい!ハッハッハ!ムッティ、ムッティ。ありがとよ!ええと、次は……」

そうして彼女は、どこから独り言なのかよく分からないような喋り方で、嬉しそうに去っていきました。

おばあさんに続いてわたしたちもトマト缶をかごに入れ、レジの近くの季節ものコーナーで売られ始めたクリスマスのクッキーを物色し、会計を済ませたところで、さっきのおばあさんがデンと立っていました。155センチほどのわたしよりも小さいのに、デン!です。ただ誰かを待っているようでしたが、目が合ったので「さよなら」と笑顔で声をかけると、彼女はトマト缶売り場で見せてくれたよりも優しい目でわたしたちを見て、「チュース(ドイツ語でさよなら)」と返してくれました。

この目、この顔。険しいのに深くて優しい表情。わたしの祖母と同じ顔だと気づいたときにはもうスーパーの外にいて、雨上がりで少しひんやりした秋の空気を吸い込んで「今日はムッティでスパゲッティにしようか!」と声に出していました。

認知症で昔のように会話が成り立たない祖母。それでも日本にいる家族が面会に行くとわたしの名前を呼んでくれる大切な存在です。頭の中では彼女のことを忘れたことはないのに、だんだん心の記憶から薄れていってしまうのがつらくて、なんとか頭にも心にも留めておきたいと思っていたときに出会ったドイツのおばあさんは、祖母の優しさの部分を近くに感じさせてくれたように思います。

日本にいる家族になかなか会えないことが海外生活のつらいところではありますが、それでもわたしはわたしの人生を歩んでいくほかありませんし、わたしを思ってくれる家族は、どこにいたってわたしの幸せを願っているはずです。わたしが彼らの一人一人の平穏を願うように、です。

トマト缶のおばあさんとの会話が、彼女の日常の穏やかなひと時となっていたら嬉しいと思います。祖国から離れて暮らすわたしたちにとって、彼女とのやりとりが穏やかで心地の良い日常の一部になったように。


おまけ。
ムッティはドイツ語で「ママ」「母さん」「お母ちゃん」といった感じの意味合いですが、今回登場したトマト製品を扱う会社「ムッティ(Mutti)」は19世紀を生きた創業者ジョヴァンニ・ムッティの名前から来ています。彼はイタリアの農家で、作物の輪作技術の発展にとって重要な人物だったようです。

みなさんもムッティ、お試しあれ!(回し者ではありません笑)


写真:2018年、ヴェネツィアにて。

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートは研究費に使わせていただきます。