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けっきょくは幸福について

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結局はすべて「幸せになるために」「幸福とは」みたいなところに行き着く。

基本的に人間は「幸せになるために」さまざまなバランスを探っている。たまに「幸せになりたいのか不幸になりたいのか自分でも分からなくなってきた…」「誰にとっての幸せを目指してるのか謎だ…」って瞬間もあるけれど。それを含めても、基本的には「幸せになるために」寄り道したり、工夫したり、している。

世界を数字で切り取ると、「数字が高い方が良い」とか「数字が高い方が勝ち」とか「よく分からないけど、数字が高い方が良い雰囲気だ」とか、指標が一方向になりがちだ。

だけど「幸せになるために」が基準と心に念じると、自分は数字が大切なのか、数字はあんまり大切じゃないのか、分かってくる。

ちなみにわたしは、どちらかといえば数字が大切じゃない方だ。多分。現時点ではそう思う。

わたしにとっての幸せは「お金を持つことによる自由」や「他人に勝つこと」や「過去の自分より成長すること」ではない。

わたしにとっての幸せは「大事な予定がないこと」「早起きしないこと」「初めて食べたものが美味しいこと」「その辺に生えてる植物を食べてみること」「本を読むこと」「心から困ってる人を助けること」など。

全然上向きじゃない。

道端のものをそのまま受け入れるとか、

ストレスが少ないとか、

嫌なことが少ないとか、

どん底の人の生活を少しだけマシにすることとか、

年齢や時代の異なる人間の考えを知ることとか。

とにかく、大したことない現象ばかりだ。

だけど仕方ない。これがダメでもない。

そもそも生まれたくて生まれたわけではないし、死にたいときに死ねるわけでもない。(時期を決めて自殺する人は特別。)

生まれることや死ぬことは、人生でもっとも大きい出来事の一つだ。大きいどころか、メインと言うべきかもしれない。そんなに大きいことすら自分で決められないのだから、人間が操作できる自由なんてたかが知れている。

死にたいわけじゃないよ。怠惰とも思いたくない。ただ、自分なりの「自然」で生きている。

頑張ることを否定するわけでもない。今頑張ってる人は、頑張る理由があって頑張っている。時代と自分がうまく合致して、頑張れている。それは素晴らしいことだ。そういう人は、そういう人なりの「自然」を生きている。

わたしはわたしで、自分の中の「自然」を生きている。

別に大したことはしないよ。その時やりたいようにやるだけ。頑張りたい時は頑張る。お金が必要だと思ったらたくさん作業する。それができないわけではない。今は頑張りたくないから頑張ってないし、頑張りたい時は頑張る。(受験期間は一日10時間以上勉強していたし、部活ガチ勢で3週間休みがない…みたいな時期もあった。)それも含めて自分の「自然」。

自分の考えを押し付けることはしない。誰かにとっては誰かの考えが正しくて、自分にとっては自分の考えが正しい。それは仕方のないこと。

平和に生きられたらいいな。でも、刺激がなさすぎてつまらないのも嫌だな。自分のバランスを探りながら生きるしかない。

バランスは意識すると変わっていくし、意識しなくても変わっていく。ある程度まではコントロールできるけれど、すべてをコントロールできるわけでもない。「今はそういうものか」と受け入れるしかない、時もある。

他人は他人、自分は自分。それを強く思うからこそ、自分と感覚が近い人を見つけると嬉しくなる。なんでだろうね。他人を通して自分を肯定したいのだろうか。

基本的には他人に無害でありたい。でも、(身体的にも精神的にも社会的にも)死にそうな人はなんとかしたい。そんな感じで、何もできないけど、なんとなくの想いを抱えながら、とりあえず生きている。今のところ、そんな人生。


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