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お金はないが幸せな気がする。

2,3年ほどロゴデザインをやっていたのかな。最近そんなロゴデザインとも距離を置いてみている。僕は僕の作るロゴが他のどんなロゴよりも面白かったのにだ。

なんか見せた方がいい??

例えば……

KAFKA COFFEEのロゴ

カフカコーヒーの名前の由来をそのままに表現した。

カフカコーヒー

可、不可、可、否

⭕️❌⭕️❌

可不可
→出来ることと出来ないこと、得意なことは自分がやり、苦手なことは誰かに助けてもらう繋がり
可否
→コーヒーが日本に伝来した当時の当て字

こんなにもインパクトのあるロゴあります??
ここまで振り切るんだったら、作り方も振り切っちゃった方が面白いと思って、本当に円と直線しか使っていないのもパンクで面白いじゃない??
普通❌の重なりの部分なんかは視覚調整入れるはずなんですよ。でもこれは入れなかった。そんなこだわりもあったりします。

Rimpactのロゴ

和柄でなんか面白いことできない??ってな話で進んでいたような。
ただ和柄を用いるだけだと凛とはしているかもしれないけれど、インパクトはないですねぇってなことで、「新しい和柄」ってコンセプトを立てて作っていった。
和柄のような反復の要素に、回転という操作を加えることで様々な表情、柄が立ち現れてくるように作成した。
その中から「大海(海外)に登る太陽(日出る国からの挑戦)」というお客さんの想いを感じるようなカタチを最終的にはロゴとした。


URNESSのロゴ

「クライアントファースト」ってコンセプトがありました。
口で言うだけなら簡単なので、そのメッセージを"態度"や"姿勢"から分かりやすく表現する必要がありました。
URNESSの文字よりも、クライアントにとっての正解を意味する⭕️を1番上に表示することで、クライアントファーストというコンセプトを明快に表現したらどうやろか??って、どうせ却下されるんやろなと思いつつ提案してみたところ、採用に至って最高!!
当初からアイコニックな形があるといいよねって話があったのでガツンと一発青い丸だけでも覚えてもらいましょうか!!ってな感じ。

みたいな。面白くない??
そんなもん誰でも作れるって??まぁカタチだけ見たらそうだわな。でもさ大人の前でこれを提案する勇気があなたにあるの??大真面目にさ。これが最高です!って言えんの??ひよってもっとそれっぽいもの作るんじゃないの??どうせ。
まぁ少なくても僕にはこれらが面白かった。他にも紹介したいロゴはたくさんあるんだけどさ。

まぁそれは↑これでもみてみてよ。

だからXやInstagramを見ていても僕よりも才能がある人ってあんましいないなぁなんて鼻を伸ばすくらいには向いてる仕事を見つけたと思い込んでいた。デザイナー自身が無邪気に、楽しそうに、出来たロゴについて話している人もあまりいないし。それでも、いつの間にかロゴデザインが楽しくなくなってきていたことに気付いてしまった。

お客さんとの相性がすこぶる良くて、この人のためなら頑張っちゃうぜ!!ってスイッチが思いっきり入ることもあった。そうなっちゃえば、こちらはノリノリで、それこそ時間を忘れて熱中して制作することが出来た。その時は自分で設定したはずの提案数も無視して、ひたすらに思いついたカタチを投げることもあった。「この方向性で進めるならこんなカタチもあるにはあるけど、あんたらのここが面白いんだし、こうした想いの方が僕には強く伝わってきている(優先順位が高い)んだから、こっちのカタチでいったほうがいいと思う!」とか、「色はこれで指定があったけど、コンセプトから考えるとこっちの方が素直に伝わるような気がする!この色の方がもっといいと思う!」とか勝手にどんどん提案していた。ロゴデザインとは名ばかりにタダでキャッチコピーを考えたり、アニメーションを作ったことだってあった。この人のために!と思えちゃえば、どんどんアイディアが見つかった。そうなるとお金とかどうでもよくて、とにかくいいものを面白く届けたくなっていた。それにお客さんも喜んでくれたし、僕もそれが嬉しかった。
でも生活は本当にカツカツだった。タバコすら買えない時期があった。本当はね。
だから単価をどんどん上げていくほかなかった。それでも仕事が途切れることはあまりなかったような気がする。安く買い叩こうとする人も減ってきて、お客さんの治安は徐々に良くなった部分もあるにはあった。ただ、そうすると段々、個人の方から企業と仕事をすることが増えていった。その頃からそうしたノリノリ案件は徐々に減っていったように思う。
個人の方はその方の想いを丁寧に掬い取り、カタチに落とし込めば、喜んでもらえた。けれど企業となると邪魔者がたくさんいる。なんなら僕と企業との間に入る担当者がそうである場合すらあった。邪魔者って言い方がアレなら他人事に考えるやつでもいいのだけど。

ある時、ロゴリニューアルの話をもらった。
担当者からヒアリングシートと一緒に企業案内用のパンフレットのデータが送られてきた。それを何日もかけてしっかりと読み込んだ。ヒアリングシートに比べて、そのパンフレットはとてもよく出来ていた。逆にヒアリングシートは悪魔の幕の内弁当だった。ここは誰かの意見で、こちらはおそらく違う人の意見。かと思えばここはただの社長の戯言だなぁ。無視無視。となかなかに酷い出来だった。そちらを元に他にも質問を投げてみたけれど熱意のない綺麗事の数々で何も面白くなかった。だからそのパンフレットを元にああでもないこうでもないと色々コンセプトを考えて、それに沿ったスケッチを描き、それを元にまたコンセプトを書き直してみたりしてようやく辿り着いたカタチを共有した際に「このパンフレットは外部の人が作ったものだから、我々は納得していないんですよね。」とか言ってくる始末。「じゃあ、納得しているものを出してくださいね。なんのために送ってきたんですか??ヒアリングシートはクソみたいな出来だし」(まぁ流石にこんなトゲトゲした言い方はしていないんだけどさ。)と言っても特にこれといったものは出てこなかった。
結構パンフレットはよく出来ていて、その企業のネーミングを元にコンセプトやモチーフ、色が決められていて、それに沿ったコピーが書かれていたし、どんな未来を作りたいかや、今までどんなことをやってきたのかが、コンセプトに沿ってストーリー化されていた。プロの仕事やと思った。なるほど、企業側に熱意や愛情がないからヒアリングシートからは何も感じなかったけれど、そのパンフレットにはそれらがしっかりとあって、僕はそれを確かに受け取っていたんだと分かった。だからそっちばかり気になったんだった。文章を読んでいるのではない。態度や姿勢を見ていた。それがこの企業からは見えない、というか、とことんつまらなく見えていた。自分事でない相手とは仕事が出来ない。これが分かった。自分たちのロゴなのに何故か他人事な人は邪魔でしかなかった。
クライアントがブレるといいものが作れない。これは僕にはどうしようもないことだった。いくら僕が軌道修正しようが、色んな視点を提供しようが関係ない。これが嫌で嫌で仕方なかった。そうした相手との仕事はいつもトイレとデスクとを行き来してやっていた。無論、トイレでは吐いていたんだけど。そんなの続くわけないじゃない??結局その案件は既存のロゴのイラレデータ作りで幕を閉じた。新しい風を取り込みたいんじゃなかったっけ??既存のロゴなかなかに酷いけど大丈夫そう??そんなことも言ってみたが、そういう時だけは決断が早かった。
他にも色々と苦労した企業相手の仕事はあるが、あんまりそれらについて書いていても面白くないからやめておく。

僕は名城大学というところの建築学科を卒業している。建築に比べたらロゴは割と簡単に短い時間で作ることが出来るものだ。それなのに、そんな短い時間ですら楽しく過ごせず、他人によって質がどんどん落ちることが僕は許せなかった。だから一旦辞めた。時間がもったいない。面白くない。
相性のいい人との仕事であれば、これからもどんどん受けていきたいとは思ってはいるけれど、やってみないと分からない部分があるからなぁ。どうしたものか。

と、まぁロゴと距離を置いた理由はこんなところか。
だけど僕は何かを作る手を止めることは出来なかった。

そうしてロゴデザインと距離を置いて何をしているかというと、作りたいものを思いついたらとにかく作っている。シルバーリングを作ってみたり、○△□の掛け軸から着想してアニメーション(デジタル掛け軸!!)を作ってみたり、今はお茶碗のデザインや、灰皿のデザインにも着手している。生活の中に入り込んだ、必要のないロゴを消し去る活動も始めた。あとはこうして文章を書いてみたり、とにかく思い付いたことを何かしら手を動かして作っている。
まだこれをやっていたいからサウナには行けないなぁってな感じで、大好きなサウナに行く機会も減ってきたくらい熱中している。またまたお金はない。でもタバコは買える!!笑
なのに最近めちゃくちゃハッピーじゃね??ってな気もしている。
ショップまで開設した次第。買ってくんね??助けてくり!!
なんなら物々交換でもいいんやで??なんか作ったら見せてよ!
気に入ったら交換しよう!!とにかくみんなどんどん作ろ!なんでもいいから!

僕はどんどん自分の生活周りのものを自分で作るようになってきている。
絵が欲しいなと思えば描けばいい。下手でもいいじゃん。描いてる時楽しいでしょ??飾ってみたら、あれ??いいじゃん!!って。
あとは友達が作った折り紙の作品もデスクに飾ってあるな。僕が作った作品と物々交換した自転車に乗ってることもあるぞ!
一つ質問していいです??あなたの身の回りのもので、誰が、何を見て、どんなことを考えて、それを作ったか知ってるものってどれくらいあります??

例えば僕の使っているカバン

taboo No.1

これは2020年、コロナ禍の真っ只中で僕が作ったもの。
不要不急の外出は控えるように言われていた頃だったから無性に飛沫を飛ばしてやりたくなってペンキを思いっきり飛ばした。
古着屋で見つけた鞄のシルエットはいいけれど見た目が気に入らなかった。肩に掛けるベルト?の部分も長いからもっと短くしたいな。
自転車に乗る時、ずり落ちてくるからベルトで止められるように出来たらいいな。
僕は真っ黒の服ばかり着るから、暗がりで光を反射するともっといいかも!
そんな風にして徐々に出来ていった。
そういう誰かのストーリーや想いを含んでいて、それをあなたが知っているものってどれくらいあるんでしょう??そういうものにこそお金を使っていった方が楽しいんじゃないかなって思うし、僕もそういうものを買いたいんだけど、みんな何も作らないでしょ。面白いのに。

「努力なんて才能のない奴がするもんさ。」
これは僕が大好きなアニメ「ピンポン」の主人公ペコのセリフ。なんとも憎たらしいセリフに見えるが、そうではない。と、僕は思っている。ペコは一度卓球をやめ自堕落な生活を送った後、猛特訓に励む。でもこれを僕は努力だとは思っていない。
ロゴデザインで言えば、これは僕がいいお客さんと出会った時の何かに突き動かされる、何かが憑依したかのようにアイディアが浮かんでくる状態としかみていないから。それか今の生活のようにただひたすらに作りたいものを作ってみている時の感覚にも近い。遊びにも似た感覚か。遊びを誰も努力だなんて思わないはず。でも気付いたらものすごい時間が過ぎている。自分だけの世界に入り込んでいる。そんな感じだと思う。
遊びは僕にとって世界そのものにだってなりうる。これはすごいことだ!

思えばUKIYOという名前、活動のコンセプトそれ自体が、「遊びを生活に組み込むこと」だったんだった。忘れてた。自分で考えたことなのにすぐに忘れる。忘れることにおいて僕よりも才能がある人はいないんじゃないの??それくらいよくものを忘れる。でも思い出す。というか覚えているけれど、その引き出しがどこにあったかをすぐに忘れる。覚えることもまた僕の才能とも言えるような??
ロゴデザインだって誰かのために頑張っているのに、その自覚がない時ほど遊べていた。遊べていない時は吐きながら誰かのために努力していた。努力というものは窮屈さの中でしか生まれないもののようだ。だから努力ってものが僕は大嫌いなのかもしれない。それを思い出せた。遊びだよ。遊び。子どもの時は出来ていた遊び。自由の中で努力みたいなことをすると、それはむしろ遊びって言葉になるんじゃないか。
遊びを取り戻すこと、生活の中に遊びを埋め込むことが僕の建築観なんだ。
みんな死にたくなるような家で、死にたくなるような電車に乗って、死にたくなるような仕事をして、死んだ顔してYouTube見て、明日の不安で眠れない。で、また朝アラームに起こされてんだろ??そうじゃないの??違う??違ったらごめんだけどさ。もっと遊ぼうぜ!!お金にならない??確かに!僕にはお金がない。でもあんたと僕、どっちが楽しそう??僕やんな!じゃあお前もなんか作ってみぃよ!!って大体の人には言えそうな気が最近してきている。
遊びによって成り立つ世界がいいと思う。遊んでる人たちの世界。遊びによって自らを育む。そんな建築を僕はいつか作るんだと思う。というか今それを身をもって体現していっているのかもしれない。実家暮らしが何を偉そうにと思うわな。実際そうなんだけどさ、でも割とハッピーなんよ!まじで!きっといつかアトリエを作るからさ!遊びに来てよ!それで感じて!ね!これもきっとちょっとしたら忘れるけど、また思い出すからさ!どうにかなるっしょ!!いつか!ね!
子どもの頃にそんな遊んでいる大人たちと出会いたかった。そんな思いもあったりするんだけどね。

そういえば、僕は子どもの頃、楽しそうな大人を実際にこの目で見たことがなかった。親、学校の先生、コンビニのアルバイト……
どうして??変じゃない??そんな違和感を抱いていたことだって忘れていた。
子どもの頃、そんな大人たちと出会っていたら、僕はもっとまともだったと思う。悔しい。泣きそうだ。
僕は自分で言うのもあれだけど、通ってた小学校の中で一番勉強ができた。先生に頼まれて生徒会長だってやっていた。だから、今だったら大谷翔平から送られてきたグローブを一番に触れるようなポジションだった。でも、これが良くなかったなって思ってる。「いい子ちゃん」って病気にかかってた。
テストでいい点とったら褒められた。でもそれっていい点取れれば誰でも良かったんじゃないの??そんな気がしてくるじゃない。親や学校の先生という大人たちの評価の裏にはこんな子どもになれっていう無意識の洗脳とまではいかないかもしれないけれど、脅迫がある。これを多分、僕は誰よりも強く感じていたんだと思う。だからいい子ちゃんをしていた。自分がしたいことではなく、大人がやって欲しいこと、評価することをすすんでやるようになった。だから通知表にもいいことが書かれる。それを親が褒めてくれる。そうして気付いた時にはいい子ちゃんに飲み込まれていた。僕は本当に学校教育の賜物中の賜物だった。
それがおかしいと気付き始めたのはそれからだいぶと時間が過ぎて、大学院に入ったあたりの頃だった。それでもそこから抜け出すのに棺桶に片足突っ込むくらいまでは自分を追い込んでしまった。

僕は名城大学を卒業後、岐阜県は大垣市にあるIAMASという大学院に進学した。
学校教育という罠に完全に嵌っていた僕だったけれど、何か救いを求めていたというのか、導かれるようにしてIAMASへ入ったような気がする。IAMASというところはおかしなところがたくさんあった。
入学式一つとっても、「入学式を始めます」司会がそう言うと、「シャンシャントゥワンシャントゥワンシャンシャントゥワンシャンドゴーン!!」と銅鑼が鳴り響いた。すかさず司会が「邪気を払うために法螺貝の演奏をします。」と言って「ボオオオーンヴボオオオーンボオオォーン」と法螺貝の地鳴りのような野太い音が会場を満たした。そうしてようやく学長の式辞が始まった。
大の大人が真面目にこんなことしていることに僕は衝撃を受けたんだった。
同期の自己紹介だって普通とは全然違った。一人は自分の指紋の写真を一枚貼って、生きてきてそうなったものがこれだ。これでも見てろ!!ってな人もいたし、一人は街にポエムをいくつか書いてきたから、その言葉たちを追って歩いてみればいいって人もいたっけな。
自己紹介といえば、私は〜です!何歳です!趣味は〜です!みたいなテンプレが染み付いてしまっているが、よくよく考えてみるとそんなもの誰も覚えていないわけで、自分を伝えているようで何も伝えてないに等しいと分かる。数年経った今でも覚えている自己紹介なんてこれが初めてだった。そんな話をすると大抵の人たちは「変なの」って笑う。僕もそう思っていた部分もあったけれど、逆に僕がおかしいんじゃないかって思わずにはいられなかった。「人の目ばかり気にして自分の言葉で話さないやつはクズだ」って常に言われているような感覚があった。そこで僕はもがくのだけど、いい子ちゃんという病はそう簡単に治らなかった。コロナ禍という状況も相まって、ワンルームで毎日誰とも会わない生活を送っているうちに僕はベッドからも動けなくなってしまった。それから親に連れられて実家に帰ってくるまでの記憶は実は今もあんまりない。ただ毎日何かに恐怖を覚えていた感覚だけが残っている。実家に帰ってこれたのは、僕が年次制作の提出期限を過ぎても連絡が取れないのを学校側が親に連絡を入れてくれたからだった。
親も僕と連絡が取れないから下宿先まで乗り込んできたんだった。何故かその帰りの車中でもずっと泣いていたところからは記憶がある。記憶ってオンオフできるんやったっけ??それでなんとか今も生きている。時期がずれていたり、年次制作がなかったらそのまま孤独死してたと思う。まじで。僕を育てるのには完全に失敗した両親だったが、この時救ってくれたことには本当に感謝している。ありがとう。

実家に帰ってきてからもしばらくは何も出来なかった。その間は休学という扱いにしてもらっていた。親に連れられて精神科を受診して、検査したり、なんか色々紙を書いたり、カウンセリング受けて、双極性障害とADHDという診断をもらった。なんだよそれって怒りにも似た複雑な感情と、そういう体質だったんだって分かったことによる安心感との間を揺れる不思議な感情だったような。見て見ぬ振りしていたけれど、実際に僕は大学4年生の頃から、ちと調子が悪かった。それが大学院の頃により悪化していったような感覚が実はあったりする。
鬱から回復するのに僕は何年もかかっている。休学期間は2年と決まっていたのだけど、その間に戻れなかった。笑えるようになるのに2年ちょっとかかった。苦しかったなぁ。本当に。それで今は「僕は人間2回目だぜ」とか言って笑えてる。良かったなぁほんと。
休学中、もう貯金がなくなっちゃったからバイトの面接にいくつも行ったんだけど、全部落ちた。そういうのに応募する時は決まって躁の時だから、威圧的なんだった。髭面の長髪の男が来た時点でアウトやろーに、その癖「なんで女(女とか言うなよ)は髪を結べばいいのに男は切らなきゃいけねぇの??」とか言っちゃう。誰も採用する訳なかった。

だけど本当にお金がやばかったからなんとかしなきゃいけなかった。そこで見つけたのが、クラウドワークスのロゴデザインのコンペだった。なんかこれなら出来そうじゃね??って。完全にロゴを舐めてた。そこからいろんなコンペに応募しまくったんだった。いろんな本も読んだし、いろんなロゴをたくさん見た。気付いたらロゴは500個以上作ってた。今思えば駄作も駄作なんだけど、こうやって数を作ることは割と楽しかった。五十川雄貴って本名でやっても良かったんだけど、何故かUKIYOって名前を名乗った。鬱の時の経験から生活はいつでも自分を殺すことが出来ることを自覚した。だからそんな生活に少しでも遊び(playの意味の遊びと、余裕の意味の遊び)を組み込むんだ!!ってコンセプトまで考えた。でもロゴデザインを選んだのはただ無料で作れて、お金になるものが良かっただけだった。だから実際のところあまりUKIYOのコンセプトには則っていない活動ではあるなと自覚はしていた。が、まぁいいかと。誰もそんなこと突っ込んでこなかったし??
そうこうしている内に、某有名磁気ネックレスブランドのロゴコンペでアイディアが面白い!!って選ばれた。実際に使われることはなかったんだけど、それでも嬉しかったなぁ。今でもそのブランドのショップとか見ると嬉しくなっちゃうもん。その後、賞金70万円って今の今までこれ以外でみたことない賞金のコンペで選ばれたことで調子に乗ってロゴデザインを始めたんだった。
自分が作ったものにこんな大金払ってくれるん??やば!!って思ったし、それが自信にも繋がった。いくら値上げしたって、これを超えることはないからまぁ物好きな人が依頼してくるやろって妙な自信があった。それでこの文章の最初の方に戻ってくるかな??

何度も言うけれど、僕は僕が作るロゴが大好きだった。こんなにいいロゴある??おもろいと思うんやけどな〜って友達にも言ってたし。それくらい愛があるものをたくさん生み出すことが出来た(と思いたい)。それは一重に僕を信頼してくれて、あえてちょっと変な言い方をするが邪魔しなかったお客さんがいたから成し得たことだ。採用されなければ世に出ることはない。それを採用してくれたお客さんにもまた感謝しかない。ありがとう。

そこからスランプに陥っていったのは、マッチングが上手くいかなくなって、愛のない人に囲まれるようになったからだろう。奴らはみんな仮面を被っている。仮面の下には本当の顔があるはずなのに、みんなそのことを忘れている。これも「いい子ちゃん」に似た病だと思う。ホワイトカラー病??働いたことないから分からんが。
僕はもう努力はしない。遊びに夢中だからだ。僕と遊んでくれる友達の仕事しか受けないことを決めた。一度は企業相手でも、決済者との仕事しか受けないようにしようと思ったのだけど、決済者である社長ですらクソみたいな人間がいることは、ロゴデザインの仕事を通して分かった。だからもうこの基準しかない。
「友達」
クソ真面目に言ってるぞ!
だって遊びなんだから。友達としか出来ないでしょ??
一応ロゴデザインのサービス自体は残しておくから、依頼してくれる人がもしいるんだったら、最大限、愛を持って遊ぼう!なぁ!友達!!

何を書きたくてこれを書いていたのか忘れてしまった。よくあることだ。
タイトルを確認すると、「お金はないが幸せな気がする。」と書いてある。そうそう!そんなことを書きたかったんだった。最近妙にハッピーな実感があったからなんでかなぁって思ったら、ロゴデザインからも離れてんなぁって思って、自分が作りたいものを作りながら、楽しく過ごしてるじゃん!って。それで友達が出来たら最高やん!と思ったんでした。

「いい子ちゃん」という病には、本当に難しい手術が必要です。死ぬかどうかの瀬戸際に立たされます。僕は、僕みたいにそうやって苦しむ人を少しでも減らしたいって割と本気で思います。マジで苦しいから。苦しかったから。だって何年も笑えなかったんだよ??そんなことある??何もないのに涙が勝手に溢れてくるんだよ??分かる??だから本当は子どもがいい子ちゃんの仮面を被らなくていい世界に出来たらいいなと思うんだけど、そんなこと出来るんかいなって困ってしまっています。実際、僕自信が食えてないしね。これは本当に大問題だ。ただ、いい子ちゃんから抜け出したいと思える人、自分はいい子ちゃんになってしまっているとまだ気付ける大学院に入った頃の自分に似た人がいたら、何か僕が手伝えることはないかなって思うし、1週間でもいいから僕のアトリエに来てなんか作ってろよって言えたらいいなって思うんです。最近僕の周りでも結婚する人がちらほら出てきて、子どもを育てている友人だっています。その子たちがいい子ちゃんにならないでいいように、親とは違った価値観の変なおじさんという立ち位置で、子育ての邪魔が出来たら楽しそうだって思うこともあります。「あんな大人にはならないようにしよう」って、いい子ちゃん化を促進してしまうかもしれませんがね。

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