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セネカ読書案内【後日譚】

エラソーに「セネカ読書案内」(導入編・基本編・応用編・番外編。どうぞお読みくださいませ…)を書き散らして、なんとなく満足したわたし。
ずっと後回しにしていた、セネカ師匠の著作『怒りについて』に取り掛かりました。

なぜ、こんなにセネカ、セネカと言ってる人間が、普通に岩波文庫で入手できるのにも関わらず、『怒りについて』を読んでなかったかというと…
以前、どなたかの書評で、「古代ローマにおける『怒り』は、現代人には理解できないほど強い感情なので、ちょっと想像の埒外。読んでもピンとこないしついていけない」みたいなのを見たから。
ついていけるかいけないか、読んでみましょう。

岩波文庫『怒りについて』には、表題作のほか、『摂理について』『賢者の恒心について』が入っています。この二篇については、ストア派的な考え方の説明がほとんどであり、やはりメインは『怒り』のほう。

読んでみると、たしかに、残虐さで有名なカリグラ帝の実例を始めとして、そりゃないわ…ってなるところも。皇帝に、息子を殺されてその肉を食べさせられても怒りを表に出さなかった(それが是とされる)、みたいな世界線はやばすぎる。

ただ、そういう現代人には共感しづらいところばかりでもない。イラッとしても、怒りを持続させたり、ましてや爆発させたりしなさんな、という話もたくさん。

そして、セネカ師匠自身が、なににイラッとしがちだったのかが垣間見えて、ニヤニヤしちゃいます。
セネカ師匠、毎晩ねる前に、その日を振り返って、己の言行を見直して反省するらしい。
それによると、とある一日に彼がやらかした(腹を立ててしまった)ことと、じゃあどうすればいいか?が、こちらです。

・喧嘩腰で議論してしまった → 未熟な者たちと衝突しないように。相手が真理を理解できるかどうか気を付けて話そう。

・宴席で言われたことが気に障った → 下品な連中との付き合いは避けよう。奴らはたとえ素面でも、廉恥心などひとかけらもない。

・友人が、金持ちの家の門番に追い返された → あの下っ端の奴隷は、権力者の門番である自分は偉いと勘違いしている。君は鎖に繋がれた犬に吠えられても怒らないのだから、遠くに退いて笑ってやれ。

・宴席で下座におかれた → 枕が君を立派にしたり卑しくしたりできるのか。どの場所でも人間の価値は変わらない。

・自分の才能をけなされた → 君の好まない詩を書く詩人エンニウスや、君がその詩を嘲笑ったキケロは君の敵か?評価は落ち着いて受け止めよう。

いかがでしょうか。ストア派の哲人でも、普通にイライラするんやな~。あと、怒らないと言いつつ、しっかり相手をディスってるのが楽しい。

結論としては、短い人生、どうしようもないことに腹を立てて無駄に過ごすな、ということ。

むしろ、君は短い人生を大事にして、自分自身と他の人々のために穏やかなものにしたらどうだ。むしろ、生きているあいだは自分を皆から愛される者に、立ち去る時には惜しまれる者にしたらどうか。
なぜ君は、あの高所から君をあしらう者を引き下ろそうと欲するのか。なぜ君は、あの君に吠えかかる男を、卑しく惨めだが、上の者に辛辣でうるさい奴を自分の力でへこませてやろうとするのか。なぜ奴隷に、なぜ主人に、なぜ王に、なぜ自分の子分に怒るのか。少し待つがいい。ほら、死がやって来て、君たちを等し並にするだろう。 

『怒りについて』ルキウス・アンナエウス・セネカ

こうなると、『生の短さについて』に戻ってきた感じがしますね〜。死んじゃったら一緒だよ、というのも、身も蓋もないというか、それを言っちゃあオシメエよ。という気もするが。

ともかく、ストア派としては、周りに振り回されて自己を見失うことは避けたいですね。

もし人が君の身体を行き当たりばったりの人に委せるならば、君は立腹するだろう。だが君は、君自身の心を出会う人に委せ、もしその人が罵るならば、それで君は悩まされたり、動揺させられたりしているが、君はそのために恥ずかしくないか。

『要録』エピクテトス

ストア派の巨匠のひとり、エピクテトスおじさんも、こう言ってますし。
振り回されて「自分」を失くすのはイヤ。でも、「自分」は、(周りの人を含む)環境との相互作用で出来ていて、つねに変化していくものだと思うので…人間って面白いですね。

今日の怒りのモトは明日に持ち越さず、セネカ師匠のように反省したのち、すっきりして忘れましょうか。
では、お元気で。おやすみなさい。


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