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これからのこと

国際協力を仕事にしたい、そう思ったのは中学3年生のときだった。
それからずっと進む先にあったものは国際協力だった。

看護師になることを決めて、大学に入って、国家資格を取って、看護師になって、アフリカに来た。10年かけてここまで来た。でもこの2年が終わったら、国際協力からはいったん離れようと思う。こんな選択をするなんて想像もしていなかったけれど、この思いがザンビアで日々を過ごす中で確信に変わってきている。

私が中学生だったころ、世界はMDGsミレニアム開発目標に向かって進んでいた。ミレニアム開発目標は2000年に策定され、2015年にゴールが設定されていた。先進国と途上国という二重構造を前提に、途上国の開発問題を解決するため、先進国はそれを援助するというものだった。

8つの分野に目標が設定され、各目標の評価指標として数値目標が設定されていた。MDGsの時代には、その数値目標を達成するため先進国がモノ・カネ・ヒトを途上国に投資し援助するという構図のもと、持続可能性よりもまずはそこで起こっている途上国の貧困や初等教育、健康等の課題解決が優先だった。

この構図の良し悪しは別として、私が国際協力に関心をもつようになったころはこれが当然の図式だった。私は日本という先進国にくくられる国に暮らしていて、五体満足、衣食住に困ることもなく、将来の選択肢は無限に与えられていた。地球上には説明がつかない不平等と格差が存在していて、その不平等も格差もなくすことができないのなら自分に与えられたチャンスを貧しい地域に暮らす人々のために使おう、そんな使命感に突き動かされていた。

私が大学を卒業するころには世界はMDGsの時代からSDGsの時代へ変わっていった。MDGsには失敗と語られる側面も多くあるが、経済成長を通じて国民の所得水準を向上させることで絶対的貧困の問題を解決しようとしたことにより、2000年からの15年で世界の貧困削減、社会開発は大きく進展した。

MDGsに続き設定されたSDGsは、特にMDGsから取り残された人々を重視する立場から国内の格差に配慮する包括的な視点が重視された目標となっている。

2015年から世界がSDGsに向かって取り組みをはじめ4年になる今、私は国際協力の草の根の現場で活動をはじめた。10年前に抱いた使命感を胸にここにやってきた。“途上国”のアフリカには課題が多くあり、自分にできることが変えられることがたくさんある、そう思ってここに来た。課題を抱えた途上国を、先進国が援助する、その構図を描いていた。現地の人々から学ぶことも多くあるはず、謙虚な姿勢で向き合いたい、そんなことを言いながらも根底にあったのは途上国と先進国、被援助国と援助国というMDGsの二重構造だった。

でも活動をはじめてからその考えが間違っていたことを突きつけられる日々を送っている。

国内の格差
MDGsから取り残された人々

ザンビアに来るまで、この言葉を深く理解することができていなかった。

私の同僚は高等教育を修了し、流暢な英語を話し、スマートフォンを持ち、家にはテレビや冷蔵庫があって、メイドを雇って暮らしている。私よりも医療者として知見があり、いうまでもなくザンビアの医療事情に精通している。

一方で地域住民のなかには、学校に通ったことがないひと、携帯電話をもっていないひと、自給自足の暮らしを営むひと、ゴミを拾って生計を立てているひとが少なからずいる。

私のクリニックには電子カルテが導入されており、血液検査をすることもできる。診療費は無料で、家族計画のための注射やインプラントの挿入も無料で受けることができる。診療部門と出産部門は24時間365日稼働しているし、エコーもある。毎週月曜日には全体ミーティングで各部署の課題を共有する。

でも停電になれば電子カルテも血液検査もエコー検査もできない。薬や検査キットはしょっちゅう在庫切れになる。住民のリテラシーは低く、医療者のパターナリズムが色濃く残っている。全体ミーティングで話し合われることはあれがない、これがない、そんなことばかり。

課題は確かにたくさんある。まだまだ変わらなければいけないところはたくさんある。でもかつてのように先進国からヒト・モノ・カネを投資し、先進国が途上国を援助するという二重構造の時代ではなくなった。


電子カルテを導入するのであれば電力の恒久的な確保ができるように環境を整えるべき。各種検査に必要な備品や薬剤が恒久的に確保できるよう、保健省は予算を確保しなければいけないし、保健省や郡保健局は適切な配分方法と在庫管理方法を検討実施するべき。そしてユニバーサルヘルスカバレッジを実現するための保険制度導入や国内のヒト・モノ・カネの適切な配分を実施すべき。患者中心の医療へと転換するためには教育機関が患者中心医療の教育に力をいれるべき。

どれも私の手の届く課題ではない。どれもひとりの力で変えられることではない。私にもなにかできることがあるはず。そんな傲慢な考えはあっという間に打ち砕かれた。

確かに国が変わるためには、その過程において他国の経験や知識を導入することは必要かもしれない。でもかつてのように絶対的な人材や物の不足が解消されつつあるいま、外国人が末端でマンパワーとして働く時代ではなくなった。人材も物も十分とは言いがたいが、自国で育成した優秀な人材が、職につけず無給でボランティアとして働いているいま、人材の配分や人件費の確保が適切にさえ行われれば、自国の人材でマンパワーは賄える。いま国際協力人材として求められているのは、知識や経験に長けていて、被援助国の有識者をパートナーとして対等に関わることができ、ヒト・モノ・カネを動かすマネジメント能力がある人材。国内の格差是正とMDGsで取り残された人々の生活をよくするためには国内の人的・物的資源を有効的にそして持続可能な形で活用していく必要がある。そのための人材が求められている。

いまの私は圧倒的な力不足を感じている。このまま2年の任期を終えたところでなにもできることはない。だからこのまままっすぐ国際協力の道を進むことはやめた。

そしてそもそも私が数ある職種のなかから看護師を選んだのは、自分で現場に足を運び、自らが人々の語りを聞き、ときに背中をさすり手を握り、住民の側で国際協力の仕事がしたいと思ったらだった。文系だった私は高校1年生の終わりに三者面談で「マネジメントをする立場ではなく、現場にでたい。だから看護師になりたい。」そう言ったのを覚えている。

活動を始めたばかりのころ、焦りに任せて思いつくアイディアをかたっぱしから実行に移した。そのひとつとして低体重児の養育者を対象にアンケート調査をはじめた。そのとき同僚の看護師から言われたことがいまでも忘れられない。

「データ収集に協力してるんだからお金ちょうだいよ。いま写真撮ったでしょ?お金は?」

私は研究のためにアンケートを始めたわけではなかった。低体重、低栄養に陥る背景を知って、対策につなげたいと思っていた。だから彼女のことばにショックを受け、「これは彼らのためにやっていることなのに、どうして私がお金を払わなきゃいけないの?」そう反論したような気がする。写真は私が撮ろうと提案したのではなく、通訳として手伝ってくれていた地域ボランティアが撮ろうと提案したものだった。

その時はショックだったし、悲しかったし、憤りを感じた。でもどうして彼女があんなことを言ったのかしばらく考えていた。ザンビアには多くのドナーが入っている。国際機関や各国のNGO、彼らは組織として予算をもち、お金を回しているので活動を数値やデータで評価する必要がある。フィールド開拓時、介入前後でデータを収集し、組織として活動を評価していく。活動の過程で物資を投入したり、資金援助したりする。外国人がやってきて、住民に調査をする。私は自分が予算を持たないボランティアであるにも関わらず、その図式に則った行動をとった。いま思い返せば、そんな私の行動をみた彼女がお金やものをねだるのは当然の結果だったように思える。外国人は援助する側、ものやお金をくれるひと。自分たちは援助される側、ものやお金を受け取るひと。彼女のなかにそんな認識を植え付けたのは、MDGs時代に先進国と呼ばれた援助国のやり方だったのかもしれない。

それから私はアンケートをとることをやめた。それでも度々ものやお金をねだられることがあったし、彼女のことが苦手だった。でも自分がボランティアであること、お給料は受け取っていないこと、ザンビアのことが知りたくて仕事をやめてここに来たことを伝え続けた。そして彼らの宗教観や職業観を尊重した関わりを続けた。9か月が経った今、彼女が私にものをねだってくることはなくなったし、私に向けられる表情は穏やかになり、私の立場や思いを他のひとに代弁してくれる存在になった。

援助する側、援助される側で彼女たちと関わるのではなく、対等な立場で関わり続けたいし、その方がずっと楽しい。彼女たちを尊重することで、自分の思い通りにいかないことや成果が出せないことにもどかしさを感じることはあるけれど、この国が変わっていくために必要なものは彼女たちのなかにあるはず。彼女たちのように国のなかで高等教育を受け、仕事につくチャンスを得られる人材が、自分の国をよくしよう、変えよう、そう主体的に望み行動してはじめてSDGsの目標達成に向けて進み出す。だからたとえ2年の活動期間に成果がだせなくても、思い通りにいかなくても、私のやり方を押し付けるようなことだけはしたくないと思っている。

いまでも国際協力は好きだし、国際協力の文脈で活躍する先人たちの姿に心打たれることがあるし、あこがれもある。

でも自分が理想とする在り方で彼らと関わるには知識も経験もスキルも、足りないものが多すぎる。それは一つの学問領域の知識や経験スキルではなく、人としての在り方や経験の不足のように感じている。だからもっといろいろな経験をして、中身のある人間になって、いつかチャンスに巡り合えたなら戻ってきたい。


まだ1年3か月続くここでの暮らし。協力隊を目指したのは国際協力のフィールドでキャリアを積むためだったから、残りの任期ここにいることの意味付けをどうしていったらいいのか少し迷っていて、少し戸惑っている。ここでの経験はすべて決して無駄にはならないことは確信しているけれど、さてどうしようか。

そんな想いを抱えながら過ごした4連休。気分転換にと思って観たこの映画。

終始、情熱も行動力も覚悟も彼の足元にも及ばない、彼のようにはなれない、そんな気持ちだった。

クライマックスに差し掛かったころ、ひとりのおばあさんが診療所を訪ねてくるシーンがある。日本が被災したことを聞き付けてやってきた彼女は、かつて自分の命を救ってくれた日本人医師の故郷が苦しい状況にあるのを知って、とうもろこしの種を日本に届けてほしいと言うのだった。

彼のようにはなれないけれど、だれかの命を救うことはできないけれど、この日本から1万2千キロも離れたこの国の田舎町でだれかが日本と見聞きして、遠い昔によく働く日本人がいたな~そんな風に思い出してもらえたら、それで十分なのかもしれない。そんな想いになった。

低体重児に介入をはじめて、継続的に経過を追っていくことができるようになったり、追跡ができるようになったりしている。個別的な介入をしても、なかなか状況をよくするのは難しくて、今日も介入中の赤ちゃんの体重が減っていることがわかって少し落ち込んでいる。でもこうして変化を追えていること、お母さんたちが継続して赤ちゃんを連れてきてくること、帰り際私のところに挨拶しにきてくれること、「最近食欲がないんだけど大丈夫かな」そうやって相談してくれること、カウンセリングをしたとき外国人の私の拙いアドバイスにも耳を傾け「ありがとう」と言ってくれること、そんな小さなことが嬉しかったりする。

20代後半の2年間をボランティアという立場でアフリカで過ごすことは大きな賭けで、学位が取れるわけでもなければ、キャリアとして評価されるわけでもない。大きな"経験"ではあるけれど、たかが"経験"に過ぎない。この"経験"を得るために2年という時間を使うのが正しい選択なのか、いまでも迷いを感じてしまうことがある。

だからこうして自分の想いと向き合い、嬉しいこと喜びと感じていることを書き出して、ここにいていいんだと自分に言い聞かせる。

残りの1年3ヶ月何度も何度も迷うんだろうな。でも迷いを否定しなくなれたことはこの9ヶ月間の成長かもしれない。

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