見出し画像

松下幸之助と『経営の技法』#107

6/1 社員稼業に徹する

~社員一人ひとりが、会社の中で、自らを独立経営体だと考えてみてはどうか。~

 自分は、会社という1つの社会の中で、社員稼業をしている独立経営体であると考える。すなわち、皆さん一人ひとりが、自己の独立経営として、自分はこの会社の社員稼業をやっているんだと、こういうような心意気になってものを見、ものを判断することがはたしてできないものかどうか、また、そうすることは間違ったことなのかどうか、ということを考えていただきたいのです。
 もし、社員稼業に徹するならば、例えば命じられただけの範囲で仕事をすませるということは、私はできないと思います。自らの稼業が夜なきうどんの主人であったとしたならば、自ら進んでうどんを売るというような心がけで仕事をしなければならないでしょうし、川べりに屋台を出して、お客さんに呼びかける必要があるでしょう。また、今日のおつゆの味はどうであるかと、自ら食べてみて、少し辛いとか、辛くないとか、自分で味わい、考えるということもやるでしょう。

1.内部統制(下の正三角形)の問題
 まず、社長が率いる会社の内部の問題から考えましょう。
 松下幸之助氏が、従業員に対し、「(独立経営の)社員稼業」を推奨しているのは、経営者意識を持て、ということですが、①言われたことをやるだけでなく、それ以上のことをしよう、②ずっと仕事のことを考えよう、という2つの意味に分けられると思います。
 これらの指摘も、取りようによっては、何かブラック企業のような雰囲気を感じるかもしれませんが、合理主義者である松下幸之助氏の真意は、精神論や根性論に頼ることではなく、もっと違うところにあるはずです。
 例えば、②ずっと仕事のことを考えていよう、という点については、#71(4/26)で検討した金言で、氏は、経営者は、体は休めても、心は休ませない、と話しています。一面では、いつも仕事のことを考えているので、本当に休まらないのではないか、という見方ができる反面、他面では、少なくとも体だけは休ませ、いざというときのために体力を温存しなければならない、という見方もできます。自営業者や経営者には、仕事のことが気になって、心も体も休まらない人が沢山いますが、体を休ませることも仕事のうちだ、というアドバイスが可能です。「心まで休ませるな」という言い方をしているのは、それは、聴衆が自営業者や経営者ではないからであり、聴衆が自営業者や経営者であれば、これと異なる話し方、すなわち「せめて体だけは休ませろ」という面を強調していたかもしれないのです。
 このように見ると、②ずっと仕事のことを考えよう、という点は、聴衆である従業員に自営業者や経営者の意識を持つことを推奨していますので、#71(4/26)と同様の話を前提にしている、と評価できます。
 次に、①言われたこと以上のことをしよう、という点は、従業員の立場と経営者の立場(特に、株主の負託を受けた経営者の立場)の違いを表すものです。
 これは、典型的に見れば、従業員は、単に労働力の提供だけを期待されているのに対し、経営者は、投資家である株主の指示など全く存在しない中で、自ら創意工夫し、負託に応える(儲ける)必要があることを表しています。法的には、従業員には「善管注意義務」があるのに対し、経営者には「忠実義務(Fiduciary Duty、自己犠牲)」がある、と整理すれば理解しやすいでしょう。経営者の義務は、経営の専門家としての責任に基づくものですから、プロである以上、素人である株主の指示がなくても、指示をしなかった株主の責任にすることが許されないのです。
 つまり、経営者の意識を持つということは、任される部分が大きくなると同時に、自分の責任で判断する部分が大きくなることです。
 これは、一見すると、従業員に立場以上の責任を負わせるもので、とても無責任に見えるかもしれません。
 しかし、従業員が順調に成長し、出世する場合、従業員から経営者になった途端に急に意識が変わるものではありません。上司の要求を正しく実現できる能力と、自分で新たなものを創造する能力は、明らかに異なるからです。
 そのように考えると、従業員である段階から、経営者になった場合に要求される意識や義務を理解し、そのレベルでの仕事を実際に行うことが、結局は、自分自身の可能性を広げることになります。「言われたことはちゃんとできる」、と評価されることがあります。これは、特に若手従業員にとって褒め言葉です。学校で良い成績を取る模範生のようなものでしょう。けれども、いつまでもこの評価が付きまとうようであれば、反対に、言われたことしかできない、という「嫌味」であり、「小物」「所詮その程度の人」という限界を設定されてしまうことになります。
 このように見ると、①言われたこと以上のことをしよう、という言葉は、この限界を超えるためのヒントでもあるのです。

2.ガバナンス(上の逆三角形)の問題
 次に、ガバナンス上の問題を検討しましょう。
 投資家である株主と経営者の関係で見た場合、経営者の資質の問題として、極端に分けると、優秀な部下を排除するタイプの経営者と、優秀な部下を取り立てる経営者がいます。もちろん、投資家としては後者の経営者の方が好ましい投資先です。なぜなら、前者の経営者であれば、後継者が育たないので、事業の永続性が損なわれるからです。違う見方をすると、前者の経営者(優秀な部下を排除するタイプ)は投資家の期待する利益のうちの事業の継続性を犠牲にしつつ、自己保身に走っているのであり、経営者として負う「忠実義務(自己犠牲)」に反することは明白です。
 そこで、株主としてはこのような経営者を選任すべき「目利き」が問われるのですが、例えばGEのように、このことを制度化している会社もあります。
 この会社は、京都の竹をフェラメントにした電球を商品にするなど、発明家として有名なエジソンが作った会社(世界的に有名な超巨大コングロマリット)ですが、この経営者は、経営者に就任するとすぐに、自分の後継者を選ぶ、「後継者争奪戦」をすることが仕事とされています。巨大コングロマリットを率いるリーダーとなるべき候補者を選定し、それぞれの候補者に、それぞれの仕事をやらせ、競わせながら(それがGE全体を活性させる)、自分の後継者を選ぶ、というシステムが導入されています。
 この制度は、投資家=株主から見ても、現在の経営者が自己の保身を図るのではなく、事業継続(+競争による活性化)を、しかも単なる思い付きや善意に頼るのではなく、制度的なプロセスとして確立していると評価できます。
 たしかに、投資家目線で見れば、カリスマ的な経営者がいれば、その経営者がいる限りこの会社は大丈夫、と思えますが、その次を考えると、「老害」による衰退が懸念されますので、中長期的な投資対象ではなく、短期的な投資対象となってしまいます。いつ「売り逃げ」しようか、という売りのタイミングを、まるでチキンレースのように投資家同士が疑心暗鬼になって探り合う状況になってしまうのです。
 このように見ると、松下幸之助氏の言葉には、GEのような後継者レースを仕掛ける、というほどではありませんが、自分の後継者を育て、事業の継続性を維持しよう、つまり、会社を短期的な投資(≒投機)対象にしてしまう(その結果、会社経営は不安定になってしまう)のではなく、株主としてお金を安心して託すことができる、中長期的な投資対象にする、という意味が含まれるのです。

3.おわりに
 後継者を育てることの重要性は、経営者であれば皆、頭では理解していることです。
 けれども実際は、イエスマンで回りを固め、本当に優秀で「変革」のリーダーになれそうな人材は、自分の苦労を分かっていない、等と言って追放してしまうのが、とりわけ実力のある経営者に見受けられる傾向です。
 松下幸之助氏が、従業員に対して「経営者」の意識を持つように呼びかけるのは、後継者を気づかずに排除している凡庸な経営者に自分自身がなってはいけない、自分は優秀な後継者候補を追放するのではなく、育てるのだ、という自分自身への戒めかもしれません。
 どう思いますか?

※ 『経営の技法』の観点から、一日一言、日めくりカレンダーのように松下幸之助氏の言葉を読み解きながら、『法と経営学』を学びます。
 冒頭の松下幸之助氏の言葉の引用は、①『運命を生かす』から忠実に引用して出展を明示すること、②引用以外の部分が質量共にこの記事の主要な要素であること、③芦原一郎が一切の文責を負うこと、を条件に了解いただきました。


この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?