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ショートショート『美の迷路』

突然の地震によって、倒壊した家の中で青年がひとり呻いていた。
かすかに残った意識の中に自分の人生が、木の葉がはらはら落ちていくようにみえていた。

その男は画家になるために芸大にはいり、自分にとっての美を追い求める日々だった。しかし、あるときある画家がその大学にやってきてその青年の絵をみて云った。

「画家になる事はあきらめたほうがいいな。君には美というものがわかっていない」

その初老の画家は口の悪いことで有名な男だったのだが、青年はその言葉をそのまま受けとり、ノイロ-ゼにもなり、そのまま大学をやめてしまったのだった。

それ以来いつも彼の心にあるものは、「美とはなにか?」という事だけになっていた。

彼は親の遺産がはいって仕事もせずにその日暮しをしていたのだが、ある日散歩をしているときに、乳母車にのった幼児をみて、日頃の計画を実行する事にしたのだ。彼はその中の子をさらった。その母の泣き叫んでいる声も彼には聞こえなかった。

彼は大きな家の地下室でその子を育てた。その部屋の中は醜く汚いものばかりで埋めつくされていた。部屋はヘドロのようなペイントがなされ、その子にはめちゃくちゃに壊された人形や破れた服ばかりが与えられ、テレビにはホラ-のダイジェスト版だけが流されている。五歳になった子に食事を与えるときは怪獣の仮面をかぶっていた。

とにかく、一般に醜いとされているものばかりの環境の中にして、美というものが情報から感じられるようになるのか、本能的なものなのかをつきとめようとしていたのだ。

その子供はその地下室に閉じ込められていたので、外の世界を知る事は不可能だった。しかし、運動や勉強もいっしょにやっていたのですくすくと育ち、もう五歳になっていた。 
警察が一度青年の家を訪ねて来たが、快く警察官を中に招き入れ、充分に捜索させて疑いを断ち切った。やや遠くにある地下室までは警察も気づかなかったのだ。

その子の顔立ちは、ややたれ目で青白い肌で、さほどほかの子供とはかわりばえしなかった。ほかにする事もない青年はその子の話し相手にもよくなっていた。その子供も青年になついて、ある日微笑む子をみたときに、青年ははじめて自分の過ちを悟った。「明日にでもこの子と一緒に警察にいこう」

そう決意したよく日の朝だった。
突然大きな地震が青年の住む地域を襲ったのだ。

アスファルトの道路は裂け、家はひしゃげて、さっそうと立ち並んでいたビルも、斜めになって倒れかけていた。車の排気音のかわりに、泣きわめく人々の声が悲しく響き、茫然と立ちつくしている少年の姿が痛々しい。 主人を失った犬が、いままで住んでいた家の前でク~ンと一声鳴いて地べたに座りこんでいた。

その日の夕暮れ、熟れて赤々とした果実のような陽が沈んでいこうとする頃、地下室にいた子供は鍵のこわれた部屋からはじめておずおずと外の世界へ出ていった。

子供ははじめてみる外の景色を、みとれるようにみつめていた。その不幸な街をみおろすように、テレビ局のヘリコプタ-が飛びかっていた。

そして子供は一言「美しい」とつぶやいたのだ。
しかし、それがそのきらめくほどに鮮やかな夕日をみつめての事だったのか、掻き崩れた街と人をみての事だったのかを問いかけるはずの青年は、もうすでに息絶えていた。

             (了)

絵の作品名【ピアノ曲】Labyrinth
クリエイター『Tome館長』さんの素晴らしい作品です。


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