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遅れてきた志士の物語 森鴎外『津下四郎左衛門』 【読書感想文】

 森鴎外の歴史小説の中で、「護持院原の敵討」と同じぐらい読みやすいのが、「津下四郎左衛門」です。

 この作品は聞き書き小説です。鴎外が自ら、津下四郎左衛門の息子に話を聞いています。大文豪なのに(軍医としても相当の地位なのに)フットワーク軽い! 弟の元同級生といっても、ほぼ手紙でしか付き合いがなかった相手の話に聞き入る鴎外の姿を想像すると、微笑ましくなります。

 ところで、この小説は、舞台となる幕末〜明治維新の状況に詳しくない方には、少しとっつきにくく感じるかもしれません。一応、作品中にも説明はありますが、Wikipedia等を参照しながら読むと一層楽しめると思います。
 もっとも、中学生の頃から幕末の聖地巡礼を趣味にしている私ですが、津下四郎左衛門という名前は、聞いた覚えさえありませんでした。文中にも息子の言葉として

其名は只聞く人の耳に空虚なる固有名詞として響くのみであらう。

津下四郎左衛門

と書かれているので、鴎外の時代にも、既に忘れ去られた人だったようです。文中では、それに続いて、

若し私がここに一言を附け加へたら、人が「ああ、さうか」とだけは云ってくれるだらう。(中略)「津下四郎左衛門は横井平四郎の首を取つた男である。」

津下四郎左衛門

とあります。確かに私も、なるほどとわかりました。
 津下四郎左衛門は、横井小楠(平四郎は通称)を殺した男だったのです。

 横井小楠は、明治二年一月に京都で暗殺されました。元号は明治でも、この時期には旧幕府軍の一部が函館の五稜郭を拠点にして抵抗を続けていて、東京への遷都も完全には終わっていませんでした。小楠も参与という身分で政府に出仕しており、京都御所からの帰宅途中に六人組に襲われて刺殺されたのです。
 個人的には、同じ明治二年に暗殺された大村益次郎と共に「新しい時代になってすぐに殺されるなんて、気の毒だなあ」と思ってしまうのですが、小楠と益次郎の暗殺には、同じ年に同じ京都で暗殺されたこと、二人とも新政府の高官だったこと以外にも、共通点があります。
 暗殺者が身内であることも共通点の一つです。旧幕府側の人達が殺したわけではないのです。益次郎を殺したのは彼と同じ長州藩の藩士ですし、小楠の暗殺には常に倒幕運動に協力してきた十津川郷の郷士が数人関わっています。津下四郎左衛門も、上京して小楠暗殺を企てる前は、藩の家老の下で備中(今の岡山県西部)にあった各藩を平定する任務についていました。備中の諸藩は新政府に従う道を選びましたが、逆らう藩があれば、四郎左衛門は新政府軍の一員として戦っていた筈です。そこで戦死していれば、世間には忘れ去られても、遺された息子は父親を立派な志士だったと偲ぶことができたでしょう。

 しかし、四郎左衛門は政府の高官を殺し、死刑になった。その事実が息子を苦しめ、東大の学生という身分まで捨てることになります。

人は(中略)学問を勉強して、名を成し家を興すのが、即ち父の冤を雪ぐ所以ではないかといふかも知れない。しかしそれは理窟である。私は亡父のために日夜憂悶して、学問に思を潜めることが出来なかった。

津下四郎左衛門

 聞き書きの中で、息子はこう語っています。

 それにしても、新しい政府が始まって何年か経った後なら、政策の違いや派閥争い等で政府内が揉めて、時には暴力的な事態になってしまうのも理解できます。明治時代でいえば、明治六年の政変や不平士族の反乱がこれにあたります。
 しかし、政府が始まったばかりの明治二年に暗殺事件を起こすなんて、四郎左衛門達は単なる不満分子では? と思いたくもなります。でも、そうではないのです。
 江戸幕府を倒す際、スローガンになったのが「尊王攘夷」という言葉です。天皇を尊び、外国を排除する。尊王攘夷を実行するために、幕府を倒すのだと考えて、倒幕運動に参加した人が多かった。ところが、徳川将軍が位を退き、江戸城を明け渡しても、新政府は開国をやめて鎖国に戻るとも言わないし、外国と戦争する様子もない。尊王は達成できたが、攘夷はどうなっているんだ……? そんな不満が高まった。横井小楠や大村益次郎は、攘夷が行われないことに不満を持つ志士達のターゲットになったのです。実際には、二人だけでなく、明治政府で力を持つことになる人達は皆、外国との間に揉め事を起こす気などなかった。鎖国どころか、明治四年には大勢の政府高官が岩倉使節団として、アメリカやヨーロッパに渡っています。

 四郎左衛門達は、政府の人達のそんな考えがわからなかった。横井や大村を殺せば、自分達が目指していた攘夷が行われると信じたのかもしれません。
 「実は自分達にも即座の攘夷は無理」とわかっていながら、幕府を追い詰めるために表向きは攘夷を唱え、攘夷を信じる人達のエネルギーを利用した大久保利通や西郷隆盛、木戸孝允達は、どれだけ優秀な策士なんだ…と感心してしまいますが、あまりにも優秀すぎて、表向きのスローガンを信じ切った人達も少なくなかった。四郎左衛門のような志士だけではなく、新政府の中枢でもそうでした。新政府内の攘夷派は、四郎左衛門達を庇い、死刑を免れさせようとさえしたようです。死刑の執行が明治三年まで延びたのは、裁判を行う弾正台にまで四郎左衛門達に同情する人がいたためでもあります。
 暗殺後に父を庇う動きがあったと知って、四郎左衛門の息子は父の名誉を回復するという望みを諦めきれなったのかもしれません。普通に考えたら、政府高官を殺した犯人が許されるわけなどないのですが。

 私の父は善人である。気節を重んじた人である。勤王家である。愛国者である。(中略)然しながら其反面に於いて、私は父が時勢を洞察することの出来ぬ味者であつた、愚であつたと云ふことも認めずにはゐられない。父の天分不足を惜しみ、父を啓発してくれる人のなかつたのを歎かずにはゐられない。

津下四郎左衛門


 息子はそう語ります。そして、聞き書きの最後をこんな言葉で結ぶのです。

 私はもうあきらめた。譲歩に譲歩を重ねて、次第に小さくなった私の望は、今では只此話を誰かに書いて貰つて、後世に残したいと云う位のものである。

津下四郎左衛門

 遅れてきた志士、津下四郎左衛門。時代を切り拓いているつもりだったのに、時の流れに押し流されてしまった。森鴎外は、そんな彼や彼の息子に同情するでもなく、といって、後世の知恵で断罪するわけでもなく、四郎左衛門の生涯を淡々と描いています。文豪の手による聞き書き形式の歴史小説、是非読んでみて下さい。




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