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プルースト『失われた時を求めて』を読む 後篇

 マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』こそ世界最高の文学作品だと人から教えられ、よし、自分も挑戦してみようと第一巻目の『スワン家の方へ』を手に取ったものの、冒頭の数ページだけで脆くも挫折してしまった読者が、世界中にどれくらいいるのでしょうか? おそらく、ものすごい数にのぼるはずです。
 かくいう私も、高校生のときに、当時、新潮文庫に入っていた『失われた時を求めて』を読もうとして、見事、この轍を踏んだ一人でした。
 といっても、十八歳の私は大長編小説はまるでダメというのではありませんでした。その反対です。『戦争と平和』『カラマーゾフの兄弟』『チボー家の人々』『静かなドン』などの大長編小説の名作を読破したことを唯一の誇りとする大長編マニアだったからです。
 ところが、「小説は長ければ長いほどいい」と思っていた私ですら、『失われた時を求めて』には躓きました。

 これは、鹿島茂さんの『「失われた時を求めて」の完読を求めて 「スワンの家の方へ」精読』という本の冒頭部です。タイトルからもわかるように、プルーストの大長編『失われた時を求めて』を完読するための第一歩として、第1篇の「スワン家の方へ」を鹿島さんが細かく解説して下さっています。

 『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』を再読し、次になに読もう? と探していた時にこの本に出会いました。『失われた時を求めて』が挫折しやすい作品なのは知っていたので、解説書から読むのもありかなと思ったんですね。ところが、完読するための解説書なのに、この文章を読んだ時「有名なフランス文学者であり、書評家でもある鹿島茂さんでさえ一度は躓いた作品なのか」と考えて、「どうやら他の長編とは桁違いに読むのが大変らしい。チャレンジするのはやめよう」と、鹿島さんの意図とは違う受け止め方をしてしまったのです。


 そんな私が気持ちを変えて、プルーストに取り組む気になったのは、村上春樹さんの小説『1Q84』の影響です。
 村上さんの小説の登場人物たちはよく本を読んでいますが、ほぼ私の愛読書ばかりなんですよね。なので、たまに読んでいない作品が出てくると、興味を惹かれて、読みたくなります。
 『1Q84』で『失われた時を求めて』が言及されるのは、こんなシーンです。

「プルーストの『失われた時を求めて』はどうだ?」とタマルは言う。「もしまだ読んでいなければ、読み通す良い機会かもしれない」
「あなたは読んだ?」
「いや。俺は刑務所にも入っていないし、どこかに長く身を隠すようなこともなかった。そんな機会でもないと『失われた時を求めて』を読み通すことはむずかしいと人は言う」
「まわりに誰か読み通した人はいる?」
「刑務施設で長い時間過ごすことになった人間はまわりにいなくはないが、プルーストに興味を持ちそうなタイプじゃなかった」

 とある事情で巣篭もり生活を送ることになった主人公の青豆が、世話役のタマルにこの本を勧められるのです。刑務所にでも入らなければ、読み通せない本……。
 主人公は、タマルの助言を受け入れて、隠れ家でプルーストを読みます。

タマルの届けてくれたプルーストを彼女は読み始めた。しかし一日に二十ページ以上は読まないように気をつけた。時間をかけて文字どおり一語一語をたどり、丁寧に二十ページを読む。それだけを読み終えると、ほかの本を手に取る。

 この部分を読んだ時、こんな風にすればプルーストを完読できそうだと感じました。プルーストに限らず、二十世紀に書かれた「意識の流れ」系列の小説は、大きな事件が起きるわけでもなく、日常の些細な心の揺れを丹念に描いていきます。そうした描写は、前のめりに読むと、何となく読み流してしまい、後に何も残らないことを以前『ユリシーズ』を読んだ時に経験しました(『ユリシーズ』は途中で中断したままです)。

 そんなわけで、青豆を真似て、寝る前に20ページずつプルーストを読む生活を始めたわけです。普通の小説なら、そんなに時間をかけたら筋を忘れてしまいそうですが、『失われた時を求めて』には筋というほどのものがないので、問題ありません。
 それに、正直、私にとってはかなり退屈な部分もあったんですね。その土地の地理についての話や、語り手が同じようなことを延々と考え込んでいる部分など。
 鹿島茂さんは、小説の冒頭部分を引用した上で、こんな風に書いていらっしゃいます。

さて、いかがでしょうか? これを読んだだけでもう眠くなってきたという読者もいるかもしれません。完読を促すどころか、挫折を誘っているように見えるのではないでしょうか?
 しかし、ほんとうのことをいうと、プルーストが意図したのは、ズバリ、読者をここに書かれているような、夢うつつの状態に投げ込み、その、眠っているのか目覚めているのかよくわからない半醒状態というものを体験させることによってこれを意識化させ、その上で改めてテクストに戻るよう促すということなのです。

 鹿島さんは学者なのでこんな風に分析なさっていますが、作家のサマセット・モームは読者代表として、こう書きます。プルーストと同世代であるモームは、『失われた時を求めて』が大好きなのですが、それでもこう書かずにはいられなかったのです。

彼の小説は繰り返しがじつに多い。その自己分析は、読んでいてうんざりする。また、彼がまるでものにつかれたように、退屈きわまる嫉妬心を執拗に追及しているのをよむと、どんなに熱心な読者でも、しまいには疲れてしまう。

サマセット・モーム『読書案内』

 こう書いた後に、モームは提案するのです。「まず最初からはじめ、退屈になったらとばしてよみ、しばらくしたら、また普通のよみかたにかえるのをおすすめする」と。
 多分、とばし読みもプルーストを読む時の一つの読み方なのでしょう。とばすどころか、一冊にまとめた縮小版までありますし。私も、他の小説では退屈な部分をとばしたことがあります(『レ・ミゼラブル』の作者が古戦場を訪ねる部分など)。でも、『失われた時を求めて』に関しては、すべてが一つの有機体のように一体となった作品、退屈な部分にも意味がある作品だと感じたので、少しずつ読む道を選びました。退屈でも、一度に20ページぐらいなら、何とか読めてしまいますから。――読了した今、とばさずに読んでよかったと感じています。その時は退屈に思えても、後になって、あれはああいう意味だったのかとわかる部分が非常に多かったので。退屈な部分や度重なる繰り返しも含めて、「失われた時を求める」という命題につながっているのだとも感じました。

 もちろん、20ページなどと言わず、このまま読み続けたいと思う部分もたくさんありました。語り手の祖母が病床に伏す話、ある作家とフェルメールの絵のエピソード、ヴェネツィア旅行の話などは、小説の中の話というよりは、親しい誰かに直に聞いた話のように強い印象が残っています。
 非常に繊細&鋭敏なのに、ひどく抜けたところもある語り手。個性的な登場人物たち。
 ドレフュス事件について書かれた箇所を読むと、善悪では割り切れないものがあるとプルーストが理解していたことがわかります。ユダヤ人である自分にとって重要な事件でさえ、プルーストは単純な解釈を拒むのです。
 幾重にも織られた、繊細で美しく、時に滑稽でもある物語。読み終えたばかりなのに、すぐにまた読み直したくなっています。

光文社版。名訳で解説や注もわかりやすいが、6巻までしか出ていない。

井上究一郎訳。電子版で全部読めるのはこの版だけ。解説がない。昭和後期の訳なので、そんなに古さは感じない。

古川一義訳。電子版はないが、名訳で解説なども良いみたい。

鈴木道彦訳。これも読みやすそう。


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