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村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』 【読書感想文】

 前に、村上さんの小説は読もうと思った時が読み時だと書きました。若い頃に読んでいればよかったと思うものの、この歳になって読む村上文学もそれはそれで味わい深いと感じたからです。

 でも、この『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、リアルタイムでとは言わないまでも、20世紀中に読みたかったです。
 1985年には「主人公の脳をいじって、『世界の終わり』という深層意識でできた世界を作り出す」とか、「敵勢力の暗躍のせいで、主人公がその世界にとらわれてしまう」という設定は、相当衝撃的だったのではないでしょうか。

 でも、1999年に公開された映画『マトリックス』以降、「人の意識が具現化した世界」とか「人の意識に入り込む」といった話は、珍しくなくなりました。
 私も『マトリックス』三部作にはまり、その後もチャーリー・カウフマンが脚本を書いた『マルコヴィッチの穴』や『脳内ニューヨーク』などの作品群、デイヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』と『インランド・エンパイア』等々、人の意識がテーマになった映画をよく観たものです。
 ゲームでも、『ファイナル・ファンタジーⅩ』や『キングダム・ハーツⅡ』に意識や夢が具現化した世界が登場しましたし、ドラマや小説にも、同じテイストの作品があったと思います。

 それらの集大成とも言えるのが、2010年公開の映画『インセプション』でしょう。複数人で同時に夢を見ることで、主人公たちは、それぞれの夢に入り込んでいく。夢には階層があり、最下層には、そこに落ちたら現実の世界に戻れなくなる虚無と呼ばれる世界がある、といった設定や歌が二つの世界をつなぐことなど、村上さんの小説との共通点も多いです。

 その後は、さすがにお腹いっぱいになって、そうした作品を追うのはやめましたが、最近では、意識が具現化した世界というコンセプトは、いくつもある設定の中の一つに過ぎなくなっている気がします。それぐらい、当たり前のものになっているわけです。

 というわけで、つい最近『世界の終わりと…』を初めて読んだ私は、二十世紀にこの本を読んだ方々が味わった感動と興奮のごく一部しか得ることができませんでした(SF系の作品に興味がなく、上に挙げた映画をどれも観たことがない方は、ぜひ、この小説を読んでみてください。世界が広がりますよ)。

    *

 ただ、村上さんの小説には、他の作品とは大きく異なる部分があります。他とは違い、とても村上さんらしいところが。
 他の作品では、意識でできた世界はあくまでも虚の世界です。一時的に訪ねるだけの場所だったり、時には虚実がわからなくなって、心を病んでしまったりすることもあります。意識の世界は現実世界を補完するもの、または現実の世界を生きづらくする、厄介なものでさえあるかもしれません(デイヴィッド・リンチの映画だけは、虚実の境目があいまいで、「現実って何?」「虚実に違いがあるの?」と問うタイプの作品なので、ちょっと違いますが)。

 村上さんの小説では、主人公は意識でできた世界に残る決断をします。私の読み込み不足か、または村上さんが明示していないのかもしれませんが、主人公の決断には、現実の世界の出来事が影響している可能性もあります。現実の世界で、道を絶たれてしまったために、残る決断をするしかなかったのか。
 または、反対に、主人公の決断が、現実の世界での成り行きに影響を与えた可能性もあります。この場合は、意識が現実の世界を変えたことになります。
 どちらにしても、主人公は「世界の終わり」という閉じた世界で生きる道を選んだことになります。虚であるはずの世界が、主人公にとって、実の世界になるのです。
 この世界に疲れた人たちにとっては、希望の持てる結末ではないかなと感じます。
 または、その決断も、時代を先んじすぎていて、85年には、意気地なく、後ろ向きの決断だとみなされたのかもしれませんが…。

    *

 「世界の終わり」に残るという主人公の決断で、『未来世紀ブラジル』を思い出しました。
 この映画は、村上さんの小説が出版されたのと同じ1985年に公開されました。情報省という組織が社会を支配するディストピアが舞台で…ディストピアといっても、戦争や貧困ではなく、硬直した官僚組織、いわゆる「お役所仕事」が世界の荒廃を招いているんですね。書類のミスで、タトルというテロリスト(ロバート・デニーロが演じています)の代わりに、無関係のバトルさんを捕まえたというのに、ミスを認めようともせず、そのことに抗議したジルまでテロリストとして捕まえようとする情報省。
 主人公のサムは、情報省に勤めながらも現実には深入りせず、夢の世界に逃避していました。夢の中では、サムは翼のはえた騎士になり、美しい女性を救うのです。
 ところが、情報省のミスに抗議したためにテロリスト認定されてしまったジルが夢に出てくる女性にそっくりだとわかり、サムは情報省の職員としての自分の権限を使って、彼女を救おうとします。
 ジルの救出に成功し、彼女と心を通わせるサム。しかし、そこに情報省の追手が現れて…。

 拷問を受けるサムを助けるタトル一派。テロに巻き込まれて、サムはタトルたちとはぐれてしまいますが、最終的にはジルと二人で国外へ脱出する…。

 しかし、実はタトルに助けられたり、ジルと一緒に脱出したりするエピソードは、サムの幻想でしかなかったのです。それも、無理やり見させられた幻想なんですね。現実のサムは脳に手術を施され(多分、ロボトミー手術)、生きるしかばねとなっていたのでした。幻想を脳に送り込む機械につながれたサムの姿をうつして、映画は終わります。

 この映画は、大学生の時に友達の家で観たのですが、あまりにも救いのない結末に友達は号泣してしまうし、私も「この世で一番怖いのは管理社会だ」と考えたりして、大きな影響を受けました。
 ところが、日本では私たちが観た形=テリー・ギリアム監督が意図した形で公開され、ビデオにもなったのですが、アメリカでは、サムが手術されるシーンがカットされ、ジルと二人で国外逃亡に成功するというハッピーエンド版が公開されたんですね。

 その話を聞いた時、まだ若かったので、作品の価値を損なうやり方だと考えたのですが、今の私は、以前のようにハッピーエンド版を全否定することができません。たとえ幻想でも、幸せになれればそれでいいのではないか。そんな風にも考えてしまいます。
 村上さんの小説の主人公も、サムと同じように現実の世界では生きるしかばねとなりながら、「世界の終わり」で自分なりの幸せを探し続けるのでしょう(主人公の影の行方はここでは考えないことにします)。サムとは違い、主人公はその道を自分で選んだのだから、それでいいのだと思ってしまっていいのか、どうか。
 読む人によって、受け止め方がまるで変わってくる作品と言えそうです。
 


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