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わたしたち

あんまりだ。
あんまりじゃないか。
読んでいる最中も読んだあとも、そんな言葉がよぎった。


物語は淡々と進んでゆく。
「韓国の82年生まれの女性で最も多い名前」である“キム・ジヨン”がこの世に生をうけてから結婚し、出産して母となった今現在に至るまでの人生が淡々と綴られる。

人によっては、なんでもない普通の日々が描かれているだけじゃないかと首をかしげるだろう。
人によってはなんと男尊女卑な!と憤るんだろう。こんなものは誇張だ!男性差別だ!と声を荒げるだろう。


確かに言えることは、キム・ジヨンが精神を病んでいく過程を、本人でさえ気づかないほど社会構造というものは巧妙で歪んでいるのだということ。
この日本で女性として生きてきた私もまた騙され、つい最近まで疑問を持つことすらしなかった。それが当たり前であると。女性である人はみな、このように不平等な世の中を当然として生きてきたのだと。

キム・ジヨンは傍目に見れば、儒教ゆえ日本よりもさらに年功序列、家父長制が濃い韓国の、普通の家庭で普通の家族で普通の女性として生きていたのだろう。
エピソードの中でこれまた普通に展開される女性への性差別。性加害。
同じ姉弟なのに、同じ学生なのに。ただ笑いかけただけなのに、ただ恋愛しただけなのに、ただ就職しただけなのに。ただ結婚しただけなのに。

そこから見え隠れする男性から女性への侮蔑。いわゆる女性嫌悪、偏見のミソジニーが顔を出す。何気ない日々の中でだ。
私は愕然とする。
私が経験してきたあれもこれも、あの時も、彼らはそんな風に私を見ていたのかと。
いやそれは、社会がそのようにして男性を男性であるから仕方ないという理由付けを意識的にしてきた結果、彼らは無意識の加害者になっている場合もあるのだろう。


私が幼稚園生だった時、確かまだ4歳か5歳の記憶がある。

帰りのバスを列になって待っていた時、後ろから突然男の子に抱きつかれた。驚いて振り返ると、同じ制帽を被った男の子が笑いながら私を見ていた。そのあとバスに乗り込んでも、その子が私の背後にいないか時々確認していた。
信じられないかもしれないけれど、この時の記憶は今でも鮮明に蘇ってくる。
怖かった。なぜだか知らないけれど恐ろしかった。
同じ背丈でまだ男女の差などなかったはずなのに、その時のひどく乱暴な行いが本当に怖かった。
いつもなら一緒に裸になって川で泳いだりもするし、一緒にお昼寝をしたりする幼い関係性だったにも関わらず、私はこの出来事が何かを暗示しているようにすら思えた。
その後、小学生の時に不審者に襲われそうになったし大学の時には通りすがりの痴漢にもあった。社会人になった時は、飲み会の帰り、職場の年下の男に待ち伏せされて屈辱を受けた。

大小の差はあれ、大人になった周りの女性たちもみな、自分も似たような経験をしたことがあると告白した。
ほっとした。
自分だけじゃなかったのだと。
けれどまた私たちはその時の恐怖に蓋をして、女性という長い年月を生きているのだということも実感する。

10年以上前、知り合いの女性と食事をした帰り道、急に隣ではっと息を飲む声がした。立ち止まった彼女にどうしたの?と話しかけると、私たちを横切ったサラリーマンの集団を横目で見やりながら
「今、お尻を触られた」
と答えた。
その顔は無表情だった。
そのときはなすすべもなかった。
私はどう対処していいのかもわからず、えー信じられない!今の集団?みたいに声を荒げ、すでに小さくなっている彼らの後ろ姿を睨みつけるだけだった。
おびえた目をした彼女はすぐにいつもの笑顔に戻り、
「大丈夫」
と微笑んだ。
その後、彼女は結婚をして県外に行った。
彼女とはあれから1度も会うことがなかった。

この出来事は、今日に至るまで誰にも話したことがなかった。
彼女の自尊心を考えると今でも胸が痛んでしょうがない。そして何もできなかった自分もまた、深い自責の念にずっとおそわれ続けたのだ。

なぜなんだろう。

どうして声高に、これらのことはすべて犯罪である。
と叫ぶことができなかったのか。
叫ぶどころか、被害者であるはずの女性たちはみな沈黙を強いられた。
それをされた私が悪いのだと。隙があったのだと。そんなことは大したことがないと。


今現在。
性加害は別として、男女差別をのたまうことにある種、疑問を感じる時もある。

結婚が決まった女性社員に、皆おめでとうという言葉を送る。
当たり前のように職場を辞めることになった彼女たちは、選ばれた人間として迷いなく幸せそうであり誇らしそうである。
仕事にも人間関係にも疲労していく同僚たちをたくさん見てきて、かつ自分もその一部であると、結婚に逃げたくなるときに必ず幾度も襲われる。
結婚は逃げ場でないことも、安定でも幸せでもないことはわかっているのにそれでもあの一瞬。結婚が決まったと報告し、結婚式を挙げるあのひと時は、女性たちは“女”として強いられてきた差別も苦痛もすべて忘れ、私は幸せであると信じられるのだ。このために今まで頑張ってきたのだ、と。
それが例えまやかしであったとしても。

バージンロードの向こうでほほ笑む愛しい伴侶が、もしかすると無意識の加害者であるかもしれないという疑問を持つ人は誰もいない。


専業主婦になるのが夢で、収入のある男性を婚活で探している女性もいる。
赤ちゃんをたくさん産んで、パートナーのために美味しい料理をいっぱい作りたいと話す女性もいる。
インスタやSNSで、それらを幸せの象徴として世間に公開することを生きがいとする人々もたくさんいる。
結婚すればあえて夫の扶養となり、独身時代のようにあくせく働くこともなく、自分の趣味に使うお金を稼ぐため短時間のパートを理想とし、子供のために残業などしないのを前提とする。
もちろん無理のない程度にほぼ自分たちが家事をする。それは当然のことで決して苦痛ではない。

このような考え方をもち、そしてはたから見ても至極充実しているように見える女性はたくさんいる。
幸いなことに、これまで自覚するほどの侮蔑も性差別も性被害も受けず、男性から大事にされ、守られ、自尊心を傷つけられることなく女を全うしている、と感じているであろう女性も実際いるのだ。
独身の私が女性として生きる生きづらさみたいなものを説ことうとしたら、見えなくともその顔には?マークが浮かぶ。
しかし彼女たちに決して悪気はなく、本当に、心から、え、差別?男女平等?フェミニズム??な具合なのだ。

反対に、社会の男女差別構造に憤り、女性だからと認めてもらえず出産を機に退職に追い込まれ、家庭でも居場所がなくボロボロになっていく女性がいる。
最近では医科大の受験で不正に点数を操作し、女性を意図的に不合格に追いやった例もある。これは恐らく医大に限ったことではないのだろうが。
この男女差別の世の中で、女性が一番信頼していた受験という制度にさえ裏切られるのだから本当にやり切れない。
また、性被害のセカンドレイプはネットでも恐ろしいほど蔓延している。


一方の女性は女性であることを嫌悪し、しかし一方の女性は女性であることを謳歌している。
ここでもまた対立が生まれる構造になっている。

この矛盾がまた私をややこしくさせる。
男性側からの
男女差別など、昔ならともかくこの現代にはない。
というのも己の狭い世界で、狭い視野で狭い範囲で見ればうなずけるのだ。

女子から虐げられた男子が、巨大なミソジニーに変貌していくのも分かる。
その昔、アッシーだのメッシーだのと女性を笠に着て男を奴隷のように召しつけたじゃないか、と声を荒げる男性の声もわかる。

しかしその男性たちを生み出したのも、女性を謳歌しているように見えるのもまた、ジェンダーギャップのある社会の仕組みであるし、ここもまた、私たちが騙されているところだ。

男性社会ゆえの収入格差。
"体格差"ゆえできる"精神的"な支配関係。

私はフェミニズム学について恥ずかしいくらい無知だ。これまで男尊女卑というのは多少はあるものだ。社会というのはそういうものだと思いこんできた。思いこまされてきた。疑問を持つという当たり前のことをしてこなかった。そして今なら、世間でフェミニストと呼ばれる人々が特殊なのではなく、ひどく当たり前のことを訴えていたのだと痛いくらい実感する。
そして、それを恐れている日本の社会構造という図式も。

今ならばわかる。
あの時、背後から抱きついてきた園児にだって、「私はそんなことをして欲しくない」
と、きっぱり言わなくてはいけなかったのだ。


私たちが長い間刷り込まれている、社会の男女差別を無くすことは決してたやすいことではない。
それでも、先人達が苦労して苦労して勝ち取ってきた女性の人権はこの先も絶やしてはいけない。
人権をまず確保することから全ては始まるのだ。


"キム・ジヨン"は人間なのだ。
女であり、1人の人間なのだ。






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