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読書ノート 「マックス・ウェーバー」 野口雅弘

「はじめに」を記す。

 「本書では、ドイツの法学者・経済学者・社会学者のマックス・ウェーバー(1864~1920)の「哲学的・政治的プロフィール」を描く。

 ウェーバーはビスマルク(1854~1898)が活躍した時代に成長した。このためナショナリズムと国家権力を中心とした、今からするといくぶん古めかしい政治理解を保持し続けた。同時に、ロシア革命に強い関心を抱き、『ロシア革命論』を書いた。もちろん、この世代のヨーロッパ人の多くがそうであったように、第一次世界大戦はウェーバーの思考を大きく揺さぶった。こうした時代状況の中で、彼は多くの政治的な文章を書き、同時に宗教社会学の研究に取り組んだ。第一次世界大戦の戦後構想として、国民による投票で直接的に選出される人民投票制的大統領制を提唱したが、ワイマール憲法体制の行く末を見届けることなく、したがってナチズムの台頭に直面することなくスペインかぜによると推測される肺炎で急逝した。

 今日でも人文・社会科学の諸分野でウェーバーの名前とともに語られる概念やメタファーは少なくない。神々の闘争、鋼鉄の殻(鉄の檻)、法の形式合理性、魔法が解ける(脱魔術化)、カリスマ、レジティマシー(正当性/正統性)、家産官僚性、理念型、理念社会学、信条倫理・責任倫理などである。」


 日本では、世界中を見回しても例外的に、ウェーバーの著作が熱心に読まれてきた。丸山真男は「ウェーバーとの対決」がなければ社会学は一歩も前進しない、と1946年に書いている。日本の読者が、ウェーバーにとりわけ強い関心を寄せたのは、日本の社会科学者の大きな課題が、西欧近代を掴むことであり、ウェーバーの思想は「ヨーロッパ近代の特殊性と普遍性」に向けられており、戦後「西欧近代文化」を学び直そうとした世代が、ウェーバーの著作に手がかりを求めたのは決して偶然ではない。というわけで、ウェーバーは海外に比べ、大変重要視されていた。

 しかし、今日の世界的な状況を考えると、ウェーバーを読み解くこと、だけでいいのか、それには今日的な意味があるのか、といった疑問がつきまとう。著者の野口は続けて言う。

「世界的に『リベラル・デモクラシーの衰退』や『権威主義的体制の台頭』が指摘され、『近代からの撤退』、『近代的価値観の後退』、あるいは『民主主義の脱落者』(フォア/モンク)などが論じられている。

 かつて日本の知識人たちがウェーバーのテクストを読みながら考えたように、『近代』を語ることが、いまやとても難しくなっている。たとえば、経済成長を続け、キャッシュレス決済が世界のどこよりも進んでいるが、監視カメラが無数に張り巡らされ、デモなどの政治的な自由も著しく制限されているような(中国)体制を『前近代』や『近代』という図式で論じることにはかなり無理がある。大学の講義でも、丸山の時代に比べて、ウェーバーが登場する頻度は確実に下がっている。「ヨーロッパ近代」とはなにか、というような問題設定ではもはや把握できない領域が拡大したことが大きな理由の一つであろう。

 しかしマックス・ウェーバーがスケッチした『ヨーロッパ近代』、そしてそれを自分たちの歴史的文脈で読んできた日本の研究者によって蓄積されてきた議論はもはや意味がないかというと、そういうことでもない、と私は考えている。『近代的な価値からの撤退』がいわれている時代状況だからこそ、かつて『ヨーロッパ近代』について考えたウェーバーという人とその受容について振り返って考えて見る必要があるのではないか。」

 ウェーバーの仕事は切り取られながら生き残っていく。カール・シュミットや、フランクフルト学派、アーレントやフーコーに影響を与えたウェーバーの思想は、すでに現代社会学や政治学、哲学の深層となっている。

アーレントの項を記載する。

 「戦後、アルゼンチンに潜伏していたナチの戦犯アドルフ・アイヒマンを裁く裁判が1961年にイスラエルに開かれた。この裁判を傍聴して書かれた『エルサレムのアイヒマン』で、アーレントはマックス・ウェーバーに一度も言及していないし、『鉄の檻』という表現も用いていない。しかし、彼女が直面し、考えなければならなかったのは、自分は『歯車』にすぎず、命令に従うほかなかった、と主張する元ナチの『官僚』だった。

 ウェーバーは次のように述べている。『行政の官僚化がひとたび完全に貫徹されると、支配関係の事実上の不壊に近い形態が作り出されることになる。個々の官僚は、自分が編入されている装置から脱する事はできない』アイヒマンによる自己弁護は、こうしたウェーバーの官僚制理解と一致する。

 『アイヒマンは最終的解決の機械の中の〈ちっぽけな歯車〉にすぎなかったという弁護側の主張』は、エルサレムの法定でも認められなかったし、アーレントもこれを否定した。しかしそれでも『全体主義的統治の本質、またおそらくすべての官僚制の性格は、人間を吏員に、行政装置の中の単なる歯車に変え、そのようにして脱人間化することであるというのは、政治学および社会学にとってはもちろん重要な課題である』(『エルサレムのアイヒマン』)と述べるとき、彼女は政治学および社会学で語られる「鉄の檻」のイメージについて考えていたはずである」

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