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文章を書くのは、未来の自分が声をあげてげらげらと笑うため

noteにエッセイを書かれる方は自分の文章が好きでしょうか?それともコンプレックスと思って変えようとしているのでしょうか?それとも得意だからそれをツールとして使っているのでしょうか?

本当に様々だと思いますけど、私は割と純度の高い好きだけで書いているような気がします。勿論認証欲求がないわけではなく、書くことがそのまま稼ぐ手段になってしまえばいいなと思うこともありますが、両方ともいいなと思うだけで、相応の何か努力をしている訳ではなくなんとなくのいいなで終わっています。

私がこれらを何のために書いているかと言ったら、未来の自分が声をあげてげらげらと笑うためです。私の文章の一番の読み手は私であり、その瞬間より先にいる私全てを指しています。私は私の書くしょうもない迷い道が意外と好きで、一緒に思い起こして傷口を確認し合うというより、笑い飛ばして気楽になるために書いています。

紙ベースの日記は幼稚園から中学入学、高校卒業ぐらいまで何かしらの形で残っています。日記というにはほど遠いテストの点数が記されたものとか、その時好きだったキャラクターの名前が書かれていたり、もうそれは黒歴史ですが、私が書いたことに違いはないので、全部を一つの鞄に入れて部屋の片隅に置いてあります。多分もう見返すことはない気がしますが、その塊の中に私が在ると思うと安心できるような気持ちがあります。

中学ぐらいから創作は好きで、でも長い小説が上手いこと完結できないのがコンプレックスでした。書いていた自分がすぐ解脱してしまって、同じ文脈が続かない、そう、有体に言えば飽き性なのです。

長く物事を続けるしか攻略法のないことが基本的には出来ません。持久走とか受験勉強とか。初手で抜け道を探し、抜け道を使った後で、使っていないように振舞うというのが私でした。純粋な体力も知力もなく、ちょっと小賢しいだけのひねくれものだということは私が一番よく分かっています。

それでも、小説が書きたいなと思っていて、誤魔化しのきかない勉強がしたいなと思っていて、今まで逃げてきた分何とか形にしたいなという意志が強くなってきたように思っています。文章を書くことはこの先続けられても、ずっと小説を書く人に対する憧憬と出来なかったことという念を引きづることになるのは何か違うような気がしたというのが、正しいのかもしれません。

売るという目的のために書けず、素直な認証欲求としても括られたくない私は、目的を創造するしか自分の尻を叩く方法を知らないのです。そして、未来の私が楽しむための一作を作ろうと思ったわけです。いつも興味を持つ題材は結局のところ自我だとか他者だとかそういう話で、形にしてしまうことで悩まなくなるのではないかという目論見もあります。

自重を軽くして、書いて書いて一つにしてしまえば、私は次の扉を開けるような気がしました。まあそれもあってnoteをはじめて書くことのスピード感をあげていたわけですが、だんだん準備が整ってきたなあということです。

これが全部なかったことになったとしても、何の形にならなかったとしても、明日の私が笑えるぐらいのパワーになるのならそれはそれでいいという気持ちでもあります。

グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。