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「自然に」「普通に」「当たり前に」そこに「戻る」、そういう言葉たちを私はいつも気にしてしまう

「男は女を好きになることが、自然のことっすよ。良かったっすね、戻れて」

そういうような言葉が、ふっと耳を貫いていった。

分かっている。別に私をめがけて言った言葉でないことぐらい。私は主語である「男」ではない。それから本人に悪意がないことも分かっている。悪いと思ったらすぐに口に出して考えられる人だ。だから、そう。本人が悪いという可能性に気が付いていないということが妙に私の心をざわめかしていく。

私にもあるのだ。向上心がないとか、理解力があまりないとか、勉強が出来ないとかそういうあたりの感覚は実にがさつで、自分のことですらこれぐらいみんなできるし普通で自然でしょみたいな線引きをしてしまうことがある。私だって場合によればこういう言葉を発しているのかもしれないという恐怖感もある。

先日友人と話していて、そうやって優秀じゃないものを切り捨てていく価値観が根付いているのは私があまり好きではなかった昔の集団の影響じゃない?と指摘を受けて、なるほど嫌っていても判断基準は私の中に残ってしまうもので完全に取り去るのは難しいのだと思った。好き嫌いと指標が根付く枠は別なのかもしれない。

でも私と決定的に違うといえるのは、最後の一言。

「戻れて」

多分私はこの一言に自分たちの価値観がマジョリティであることを誇張するような重みを感じているに違いなかった。

男性から見た男女間の恋愛が「普通」のカテゴライズに入っていること、男性同士の「ホモ」いじりがこんなにぐさりとくると思わなかった。

それまで私のメンタルの保ち方は相手と絶対に距離を縮めないで、異世界の人だから言語が通じないぐらいに思うようにしていた。今回はそれを内包しなければならないところの葛藤みたいなところがあるのだ。

でもアップデートが比較的早い人が多いから、可能性にかけて許容していくことが出来るのがストレスの少ない理由なのかもしれない。物事を先々の可能性で判断するのは私のぶれない価値基準みたいなところ。

可能性があるって思うことは、そのままでいることも(この場合そのままでいることが正解とも思えないけれど)、他の選択肢をとることも許せるような気がする。多分。

頭が煮詰まってきた。今日はこれでおしまい。






グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。