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てがみのいきづかい

多くの方がそうであるように
私は仕事もnoteも、普段のやり取りはパソコンか
スマホでメール、SNS、などがほとんどだ。

SNSやメールはリアルタイムで届いてしまう。送信予約という手もあるが、あの使いどころがいまいちよく分からない。「今何してる?」こういうメッセージを送れば「ごめん、寝てた」と返ってくる。情緒も何もあったもんじゃないよなぁ。スタンプは便利だが、どこか機械的に見えてしまって、温かみを感じない。これは私が歳をとってしまったからだろうか。

手書きのメモくらいなら、良く受け取ることもあるが
「てがみ」をもらうことは少なくなった。

直筆の手紙というのは、どこか暖かくて、書いた人の顔や性格がおぼろげながら浮かんでくる。そんな気がしてくる。えんぴつ、ボールペン、筆ペン、万年筆、くれよん、何で書いたかによって印象が変わってくる。やはり手書きが良い。

もらった時はその珍しさに驚き、外からは見えない中身についていろいろと考えを巡らす。封筒、レターケース、はがき、の手触りや質感を直に感じる。差出人が自分の為に選んでくれたんだと思うと相手は誰であれ、いとおしく感じる。

私の中で印象深い「てがみ」はいくつかある。

お客様からいただいたもの、お客様の奥様からいただいたもの、子どもからもらったもの、付き合っている人からもらったもの....当時、若かった私が「てがみ」によって心を鷲掴みにされた出来事がある。それは今でも私の記憶の中のクローゼットの奥の持ち運び用小型金庫の上段の棚を外した際にあらわれる数々の重要書類の下の下の一番下から12枚目くらいにしまってあるだめだ。すぐこうやってごまかしたくなる。照れくさいならかかなきゃいいのにnote

当時の恋人が書いてくれた「てがみ」は、ルーズリーフに書かれたものだった。走り書きではなくて、罫線に沿って文章で書かれた立派なてがみ。あるいはレポート?なのかも。それを器用に折りたたんで私に渡してくれた。日々、定期的に書いてくれていた。

「毎日、顔を見るのによく書くことがあるよな」

ボンヤリとしながらそれを受け取る日々は、決して退屈なものではなかった。マメな恋人が自分の為に時間を割いてくれているのが単純にうれしかった。マスクを常用していない当時はニヤニヤした表情で毎日を過ごしていたに違いない。

内容は友達との会話やテレビの話、自分の好きなアーティストや、この前一緒に行った喫茶店の話など、どれもたわいもない話だったが、私は恋人のてがみが好きだった。過去にも同じようなことを何度か経験していたが、このてがみには他の人とは違う特徴があった。

いつも最後に決まって書いてくれていたことがある。
それは恥ずかしくなるような愛の告白でもなく、人生とは何たるかを説く訓示めいた一言でもなく、ましてや般若心経でもなかった。

時間

それがいつ書かれたものなのか、そのてがみの文末には、記録のように正確に書かれていたのだ。

○月○日(水) 23:43 

単純なテクニックかもしれない。
だけど、風が吹けばなびくような変形学生服で過ごしていた青少年をKOするくらいの破壊力はあった。その夜、その時間、自分は何をしていたのか、風呂上がりに書いたのか、あの時、ちょうど同じことを考えていたのかも知れないと。

なんと純粋なんだろう。男心というものは。

流行りのミュージシャンの歌詞なんかより
確実に、私の脳内に刻み込まれたあの時間を
今でも時折思い出す。


そして
あの時間はきっと、もう戻ってこない。


てがみの行方も今はもう

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