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#0220【戦国女性の意地(高台院(おね)と芳春院(お松))】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は戦国時代の女性特集です。

一回目は、豊臣秀吉の正妻、高台院(おね)と前田利家の正妻、芳春院(お松)を取り上げます。

この二組の夫婦は、織田信長の配下にいたときからの付き合いです。同僚だった秀吉と利家だけでなく、妻同士も非常に仲が良かったと伝わっています。

前田利家は武闘派として、豊臣秀吉は知略派として、織田信長政権において出世をしていきます。やがて秀吉は中国地方の方面軍司令官となり、利家は北陸地方の方面軍司令官補佐となりました。

そんな状況下の1582年、本能寺の変が起きると二人の運命に大きな歯車が回り始めます。利家の上司は、秀吉のライバルであった北陸地方司令官の柴田勝家(※)でした。利家は、秀吉の勢いと友情から、勝家を見捨てて秀吉に協力しました。

※ No.141【お市の方と柴田勝家】参照
https://note.mu/1minute_history/n/n394a009fed9c

勝家を滅ぼすと秀吉は大坂へと戻ります。

勝家派で、反秀吉だった佐々成政という利家と同格で北陸地方方面部隊に属している武将がいました。彼は秀吉がいないことをいいことに、利家への領地に攻撃を仕掛けました。当初、利家は成政が攻めてきた末森城を見捨てようとしましたが、芳春院(お松)が檄を飛ばします。

「あなた方は、本城をお守りください。私ども(芳春院とその女中たち)は、末森城を救いにまいります。」

利家は、若い頃は武闘派として、槍の又左(又左衛門の略、利家の通称)と呼ばれた人物ですが、出世するとソロバンを肌身離さず、常に計算ばかりしている人物となっていたのです。

自分の妻が先頭に立って末森城を救いにいこうとして、遂に利家も重い腰を上げて、進撃。末森城を包囲していた成政を背後から攻めることができ、末森城を救うことに成功します。

こういった内助の功もあり、利家は織田信長から豊友秀吉に天下人が変わっていく中でも順調に出世を重ねていきます。

秀吉が天下を取ると五大老の一人として、徳川家康の次の席次を手に入れます。

秀吉が天下人となると、大名の妻たちは大坂城に集められました。秀吉の正妻高台院(おね)と芳春院(お松)は大坂でまた友情を育んでいきます。

やがて1598年に豊臣秀吉が亡くなります。あとを追うように利家も1599年に没すると、次の天下人は徳川家康だと踏んだ二人の妻は、それぞれ家康への協力姿勢を見せます。

まず、高台院は大坂城の西の丸を家康に明け渡し、自らは京の高台寺に引っ込みます。それと同時に豊臣家の武将派の面々を徳川家康に味方するように説得します。

また、芳春院は自ら人質となって江戸へと赴きます。これ以降、大名の正妻と嫡子は江戸住まいとなるようになりました。

織田信長から豊臣秀吉、そして徳川家康へと実力者が天下人を回り持ちする当時の動きをしっかりと把握していた二人の女性。

徳川の天下を認められなかった淀殿と豊臣秀頼は、大坂城が灰燼と帰すると同じく落命しました。

高台院は豊臣家の菩提を弔いながら、京都で天寿を全うし、芳春院のいち早い行動もあり前田家は加賀百万石として徳川幕府の中で最大の領土を保全することに成功しました。

戦国の時代においては、男性も女性も先を見る目が欠かせません。それは、現代においても同じだと思います。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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主要参考文献等リスト:
https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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