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#0203【燃え広がる倒幕の火(後醍醐天皇と楠木正成、 日本史通史 )】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
月初の日本史通史シリーズです。

鎌倉幕府を倒すことに執念を燃やす後醍醐天皇に、幕府側も堪忍袋の緒が切れました。後醍醐天皇を退位させる方向に動き始めます。

(前回:No.202【我こそが真の王者なり(後醍醐天皇と朱子学、日本史通史)】)

この動きを察知した後醍醐天皇は、逆に再度の倒幕計画を立てます。この動きに危険を感じた側近が幕府側に密告をします。

失敗する確率が高いとみて、後醍醐天皇の処遇を少しでも良くしようとしての判断でしたが、後醍醐天皇はむしろ血気盛んになります。

京都御所を脱出し、大々的に鎌倉幕府打倒を宣言します。

1331年、元弘の乱の勃発です。

最初比叡山に立てこもろうとしますが、失敗し笠置山(かさぎやま、現京都府内)に籠城します。

ここで悪党として名を馳せていた楠木正成(くすのきまさしげ)を謁見します。(楠木正成の出自や後醍醐天皇との出会いには諸説あり。)

正成は後醍醐天皇から直ぐに馳せ参じたことを褒められます。

その上で正成は、後醍醐天皇からどのような計画を持って鎌倉幕府を倒して、天下を太平にするのかを問われました。

正成はこの問いに対してこう答えます。

「幕府の大逆は天の責めを招き、衰乱の機会に乗られて天誅が下されます。

その好機なら必ず滅ぼすことができます。天下草創には武略と智謀の2つが必要です。

勢いだけに任せて合戦をすると、たとえ全国の軍勢をもってしても鎌倉幕府の本拠地である武蔵・相摸(現東京・埼玉・神奈川等)に勝つことはできないでしょう。

もし何らかの策を用いて戦えば、幕府は守勢に回って欺きやすくなり、怖れるに足らなくなるでしょう。

合戦の常は個々の勝敗にこだわらないことです。(たとえ戦いで敗れたとしても)正成がたった一人生存していれば、後醍醐天皇の聖運が必ず開けると御思いください」

と述べたと伝わっています。

※実際にはこの謁見も言葉もなかったという説もあります。ただ、正成がどのような考えをもって鎌倉幕府の倒幕に進んだのかを理解する上で示唆に富んでいるため、『太平記』から引用しました。

楠木正成は笠置山を離れ、赤坂(現大阪府)にて倒幕の兵を挙げます。

楠木正成はゲリラ戦法の達人で、正々堂々と名乗り合って一騎打ちで戦うことを美徳としている鎌倉武士団を困らせます。

しかし、正成の奮闘むなしく、笠置山は陥落して後醍醐天皇は囚われの身となります。そして、正成も行方不明となります。

囚われた後醍醐天皇は、天皇の地位を剥奪され戦乱の責任を取らされて隠岐の島に島流しとなりました。

1221年の承久の変の首謀者である後鳥羽上皇と同じ流刑先です。

倒幕の旗印である後醍醐天皇は島流しとなりましたが、彼の息子たちや鎌倉幕府に対する不満分子たちは、引き続き各地で倒幕活動を続けます。

むしろ、その勢いは燎原の火の如く燃え広がっていきました。

以上、本日の歴史小話でした!

(続き:No.204【得意満面の悲願達成(後醍醐天皇と鎌倉幕府の滅亡)】

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