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#0175【モンゴルの台頭と日宋貿易(日本史通史シリーズ)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は月初の日本史通史シリーズです。

前回の日本史通史は【No.165 貴族と武士の土地争い】を取り扱いました。

日本国内の土地の権利争いを取り上げた内容となっていましたが、ここで日本列島から目を大きく大陸に向けたいと思います。

日本は古来から朝鮮半島、中国大陸と公式・非公式に交流を持っていました。

中国が唐という国家で安定していた時代には、日本から遣唐使が派遣されて公式な交流を続けていましたが、894年に菅原道真の提案で廃止しています。

907年に唐は滅亡することになりますが、既に衰亡の兆しを見せていたためです。

その後中国は混乱・分裂の時代となりますが、979年には宋(国名)によって再度中国は統一されます。

この宋という国家は唐と比べると領域も中国の中心部のみにとどまっており、現在でいうところの内モンゴル、東北三省(旧満州)、チベット、ウイグルなどは領域に含まれていませんでした。

絵画(水墨画)、書画や陶磁器などの文化的な興隆と、羅針盤・火薬・木版印刷などの技術の発達がありました。

その一方で軍事的には振るわず、むしろ、北方の遊牧民たちの勢力が強かったのが、宋という時代です。

何度も北方に領域を拡大しようとするのですが、むしろ大敗を喫してしまい1126年には長江の北(黄河流域)を奪われます。

宋という国家自体は生き延びますが、領域が南に限定されたことを受けて1126年以降を南宋、それ以前を北宋と呼んでいます。

南宋となってからもむしろ文化的には大変な興隆が進みます。長江という天然の防御壁を遊牧民はなかなか超えることができなかったからです。

日本は、北宋の時代から日宋貿易を行っていましたが、特に平清盛が権力を握っていた時代に今の神戸を大々的に開発しました。

清盛は、一時期は京都から神戸(福原)に遷都して貿易をさらに振興しようと思いましたが、源氏の勢力が大きくなると京都へと戻り、その後、清盛亡き後の平家は滅亡に至ります。

日本国内が平家・源氏に争っていた1180年~1185年の間も文物の流入はやまず、むしろ鎌倉新仏教で紹介したような禅の仏教が流入してくるなど交流は活発化し、鎌倉幕府が成立した頃にはますます日本と宋の結びつきは強くなっていました。

その頃、北方の遊牧民たちの間でも勢力図が大きく変わってきました。

モンゴルの英雄チンギス・ハーンが全モンゴルを1206年に統一すると、中国北方にいた他の遊牧民の国家を蹴散らし、さらに中央アジアへと進出していきます。

モンゴルの騎馬部隊が通ったあとは、全てモンゴルのものへと変わっていきます。

1227年にチンギス・ハーンが死んだ後もその勢いは止まらず、1231年には朝鮮半島へ進出、当時の半島は高麗(こうらい、Koreaの語源)という国家でしたが、首都をソウル沖合の江華島へと変えて抵抗を続けます。

やがてモンゴルはその牙を南宋へも向け始めていきます。そして日本も巻き込まれていくことになるのです。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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