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ブレーキを踏むことの大切さを知った日

息子が自動車運転免許を取る計画を立てている。

私の住む地域は鉄道会社一社が交通機関を独占していて競争がないせいか、市民の足が全く充実していない。しかも大きな企業もなくて貧乏なので、循環バスすらない。ただ、乗合タクシーみたいなのがあって、「こんなのあるよ!画期的でしょ、いいでしょ、がんばってるでしょ!」ってアピールされるけど、駅まで行くのにすら乗り換えなきゃいかんわ、その都度お金かかるわで使いにくいったらありゃしない。

なので、行動範囲が広い世代は車に乗ることが必至なのだ。親がお金を出して免許取らせてやる家も多いんだけど、ウチは貧乏なので申し訳ないができなかった。息子が社会に出てお金を自由に使えるようになって、ようやく車校に通うという運びとなった。てか、”彼女とあちこち行きたい”ってのが本音だと思うんだけど、バブル時代を通り過ぎてきた自分としては、若者のあるべき姿だと感じる。

自動車学校。自分が通っていた頃のことを今でも思い出す。どうしても忘れられない一日が、私にはある。

技能教習では別に指名しているわけではないのに、なぜかよく同じ教官にあたった。その教官は必要以上のことは何も喋らない、ごま塩の角刈りのおじさんだった。いつも渋い顔をしていて威圧感があってなんか怖い。その緊張で、下手くそな私はさらに運転がうまくいかなくなってしまう。たまに違う教官に当たるととっても優しくて、ちょっとした運転のコツみたいなのも教えてくれるのに。だけど「今日は優しい教官に当たりますように」と願いながらいざ車のところに行くと、たいていその苦虫を噛み潰したような教官が待っているのだ。

そのうち学生たちの春休みと重なってしまい、車の予約が取りづらい状況と私の運転センスのなさとが相まってなかなかカリキュラムが進まず、学校から「こんな進み方では卒業できなくなる」と脅された。そしてその解決策として、AT限定コースへの変更を提案された。その頃はAT限定コースは全然人気が無くて、車の予約取り放題だったのだ。当時はまだまだスポーツタイプの車がバンバン走っていて「MT車乗れないなんて恥ずかしい」という風潮があったし、私の憧れの車はMT車しか造られていなかった。渋る私であったが、「免許取得後に教習を受ければMT車も乗れるようになるから」と言い含められて泣く泣くAT限定コースに乗り換える決断をしたのだった。

コースを変わるのは、今の課題が終了してから。教官のメンバーも変わるらしいので、「苦虫教官ともお別れか〜」などど思っていた。その日はクランクとかS字カーブ、バックの車庫入れもあったかな、なんかもう遠い昔のことで忘れちゃったけど、そういう技がその頃はほんとにほんとに苦手だったのだ。教官はいつもの苦虫先生で、それまでも何度も失敗してなかなか次に進めてもらえなかった。かといって、他の先生みたいにうまくできるコツみたいな助言をくれるわけでもない。私は下手くそな自分を棚に上げて、なんか外れくじを引いたみたいに感じていた。

その日も何度も失敗、脱輪や縁石に乗り上げることの繰り返しだった。本当にセンス無かったわ自分。だけど、あるときふっと「あ、このままじゃ落ちる」とわかって、思わずブレーキを踏んだんだよね。そしたら、まさにその瞬間

「それだよ!それ!落ちる前に止まることが大事なの!」

って、教官が叫んだ。そう、私は、ようやく分かったのだ。失敗する前にストップして危険を回避しなくちゃいけないってこと。なんでこれまで、何も考えずにアクセル踏みつづけてたんだろ?自分の状況がなんにも見えていなかったのかな。なんにも感じていなかったのかな。結局、ぼーっと運転してたんだろう。どうしたら次に失敗しないか、自分で考えようともしなかったんだ。

「これを覚えておくんだよ。」と、ようやく教官は合格させてくれた。さらに「さ、次からも頑張ろうね。」っていつになく優しい言葉を付け加えてくれた。

せっかく教官の笑顔が見られたのに、とても残念な気持ちでAT限定コースに変更することを私は告げた。教官は「そっか〜。まあ、頑張りなさい。」って、すごく優しい顔をして言ってくれた。嬉しかった。ようやく次に進めたこともだけれど、教官は決して意地悪をしていたわけじゃなくて、言葉じゃなくて体で生徒に覚えさせようとしてくれてたんだって、わかったから。しかも、じっくり時間をかけてでも、自分で気がつくまで根気よく見守ってくれてたんだよね。せっかく距離が近づいたのに、それが教官との教習の最後だった。寂しかった。もっと教わりたかったなあ。

そのときから私はいつも頭の片隅に置いている。運転だけではなくて仕事においてもプライベートにおいても、「危険を回避する」ことが一番大事だということ。誰でもいつでも失敗はつきまとう。けれど、その被害を広げないためには、その失敗にいち早く気がつくことが大事。

違和感に敏感になること。
違和感を覚えたときには、必ずブレーキをかけて立ち止まること

そうすれば大ごとになる前に察知できる。たとえ回避ができなかったとしても対策を考えられる。被害を最小限に抑えられる。

あの、何十年も前の教習所でのたった一瞬の出来事。苦虫教官のあの言葉は、今も大切な私の人生の教訓になってる。たった一度だけ見ることができた教官の笑顔と共にいつも私の中にある。




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